「……要は、慣れだろう。何事もだが」
練習あるのみだ、と色気の死んだ意気を真摯に蹴り込まれた若林の顔面は、かつて受けたサッカーボールの硬さとは比較にならない柔らかな唇に、シュートの威力が嘘の様な触り方をされたものだから、ちょっとした認知不協和を起こした。
親友のヘルマン・カルツと共にサッカーを通じて切れない縁を育んできて、為人は把握しているつもりなのに、今でも鮮明に憶えている出会いがどうもあの時の彼と同一人物にはしてくれない。カール・ハインツ・シュナイダーの第一印象は、そうでなくては彼ではない、彼にはそうあり続けて欲しいという願望の鉄槌に知らず知らず叩かれまくって、十字架の様に若林源三の胸に深く打ち込まれていた。
サッカー人生に多大な影響を与えた大空翼と並ぶほどの象徴にして、仲間でも好敵手でもあるという、いわば神聖不可侵の煌めく業を好んで背負ってきた若林には、詰め過ぎた距離にどうしても邪の感が拭えない。
が、困ったことには意外と悪くないなんて感想も零れて、認識のテーブルの上を取っ散らかしてしまった。
何を以て布巾とすればいいのか……。子供の頃から当たり前に備わっている倫理観では片付けられない。何故なら彼は「男の相手は嫌でもシュナイダーは嫌じゃない」と言い切れる自分を知ってしまったからである。
ドイツのサッカー界を牽引する存在で、ヨーロッパの雄であるシュナイダーは、暑苦しい若林に比べたら華奢な印象は否めないが、女の様だとは到底思えない(むしろ中身は自分に似ており男として共感を覚えるというのに)。
とにかく彼は特別であるらしい。じゃあ恋人が相応しいかといえば違う。だったら親友の方が余程しっくりくる。でも同じはずのカルツとも違う。翼は?やはり違う。そりゃそうだ、あいつらとの肉体関係なんざ、そんな発想なかったわ。そんなもん想像しただけで怖気が立つというのに、何故かシュナイダーだけには有り得な……。
……くはないと慎ましいながらも可能性を持たせていようとは……。
という俄には信じ難い認識をいつから眠らせていたんだか、キスが引き金となって飛び起きた途端に疚しさの二日酔いが襲ってきた。
「昔からお前は思っていることがすぐ顔に出る」
と冷静に指摘するシュナイダーの表情は鏡の役目を果たしてくれない。何を思っているのか毎度のことながら読めない。人に嫌な緊張をさせてしまうから敬遠されがちな類だが、心が貧しいからでないことは付き合いのうちに知った。心に釣られた動きに乏しいのである。ハンブルクのジュニアユース時代に比べれば幾らか豊かになったものの、温度低めの取っつきにくい雰囲気は健在だ。しかしながら試合が沸騰している時だけ剥き出しにする平常運転との懸隔具合が【皇帝】の二つ名を擽って、青年の才能に称賛を惜しまぬ人々にはそんなところも魅力的に映るのであった。
「その……、すまん」
「なぜ謝るんだ?」
「お前から見た感じ、あー、えっと、なんつーか、その、あれだ、欲しいって面してたんだよな、俺。お前さっきそう言ったよな」
若林は言いにくそうに何度か躓いた挙げ句、結局主語を濁してシュナイダーを気拙そうに指差した。彼曰く欲しがっている様に見えたらしいそれである。
「ああ。言った。なんだ、違ったか」
「いや、多分違わん……とは思うんだが……」
(……。違わないのか、若林……)
頬を利き手の拳で叩いてみてから、逆手で頬から顎を撫で、目を泳がせては天を仰いで溜息をつく、落ち着かない相手の挙動を眺めながら、何事にも馬鹿正直な性根はさすが若林だとシュナイダーは妙に感心した。何と言い訳するだろうと思っていたが、この男に対しては下らない勘繰りでしかなかった。こいつはこういう奴だった。
適当に誤魔化してくれてもよかったのに、と思いつつ表情を僅かながら和らげる。自分が若林を欲しくて堪らないから、相手もそうであればいいと期待する余りに友愛が歪んで映るのかと人知れず憂鬱と散歩していた(彼は多感な時期に穏やかならぬ家庭環境に置かれて乗り越えたせいか、浮かない気分を抱えて過ごす事に耐性がある)のだが、もう飽きてもいいのだ。
彼は心軽やかになった途端、自身の勘の鋭さを褒めてやりたくなった。我ながら刳いとさえ思う。己を預言者かと疑うレベルだ。
本当は太い眉に下心など見えなかった。昔みたいにサッカーボールさえ間に挟んでいれば心を共有出来て当然だと信じて疑わない無邪気さの一斑、無神経な独占欲が、自分の抱えているものに障ったからだ。……似ている。本当に似ていたか?さあ……今となってはよくわからない。だが結果的にそうなった。
そもそもシュナイダーはどれだけ悩んでいようとも何故か若林に対してだけは自信過剰を通り越して根本的な何かが死滅してしまうらしく、嫌われるとか本気で拒絶されるとかいう発想自体が湧いてこない、ちょっと変わった人である。ゴールゲッターの嗅覚が働いたのか?若林がキーパーなんかやっているから……とか何とか頭おかしい、じゃなかった、説明のつかない第六感に構っている傍ら、悩める若林は落ち着き払った相手の態度に気圧され自省の沼に沈んでいった。
「俺を気の済むまで殴ってくれ、頼む」
はあ?という問責がシュナイダーの寄せた眉間から聞こえてきそうだ。
「断る。俺がお前を好きだと知って言っているのか?知らないはずないよな、若林。知らんとは言わせん」
シュナイダーは堰を切った様に捲し立てた。気分が昂ると些か多弁になるのである。怒っている。
「え……あ、ああ、そりゃまあ愛想ねえお前にしちゃ結構好意的だとは……」
「そうだろう」
「じゃねぇよ、何ドヤ顔してんだよ。自惚れて悪ぃが、俺を勝負し甲斐のある奴だと認めてるからじゃねえのか」
「無論だ」
「だったら違うだろが、好意の種類が」
「キスされておいてそれを言うのか……」
若林が反駁に詰まった。シュナイダーは睨みつけているものの、本気で腹を立てていなかった。サッカーばかりに感けて恋愛においては疎い(であろう)禁欲的なところも若林らしくて好きなのである。だから寧ろ好き過ぎて自分が馬鹿みたいだから苛ついていると言った方が正しい。
大体シュナイダーは若林の遣る事為す事が好きである。自分が所属するバイエルン・ミュンヘンへの移籍を度々持ち掛けても、育ててくれた古巣への恩から断り続ける義理堅さとか。残念ではあるが若林らしくて以下略。だからこそ口説き甲斐もあろうというものだ。いい加減気づいたらどうなんだと思わんでもないが、若林だから仕方ないと諦めるのには慣れているし、らしさを失わない彼に安堵してもいるのだ。
好きな子ほど苛めてしまうなんて小学生じゃあるまいし、俯いて両の眉頭の上を親指と人差し指で圧しながら何やら深刻な思案に耽っているらしき様子を見ているうちに苛立ちも萎えていき、もう勘弁してやろうかと思い始めた時、若林から「あっ」と閃きの声が上がった。
「シュナイダー、俺にキスなんかしちまって、お前、なんでそんなに落ち着いていられるんだ……?」
「殴られたいのかお前は」
間髪入れずにツッコミ入れながらシュナイダーは軽い目眩を覚えた。こいつ一体どういう思考回路をしてるんだ?と100%ブーメランの疑問を投げつつ、答えは出ている。だって若林だからな。
殴られたくて言ったわけではなかろうが、挑発するには充分であった───本人が望む以外の形で。
色々言いたいことはあるが、呆れを短い溜息と一緒に逃してもういい、と切り捨てる。
「どうやら言ってもわからんようだな」
身長差なんて5cmあるかないかだ。背伸びしなくてもお誂え向きの高さに用意されている唇に練習を唆す。
若林に緊張が走ったのが伝わる。が、そんなことは忖度してやらない。帽子の鍔が邪魔をするから右手に素早くそれを奪うと、額に口づけしながら両腕の中に首から上を閉じ込めて、胸の内で好きだと繰り返しながら顔のあちこちに柔く訴える。こんなに好きなのに伝わらないのか、とシュナイダーは愁眉を作るが、逆に伝わり過ぎて怖いせいで顔は逃げるのである。
「お、おい、いつまでする気だ…!?」
「お前がわかるまでだ」
「わ、わかった、わかったよ!ったくお前って奴は!」
「だったらその証拠にお前の方からキスしてくれ」
なにィ!と叫ぶべき状況なのにど忘れして、追って来たアイスブルーの双眸に若林は唖然としながらも釘付けになる。
見慣れているはずのものに斬新さを見出した瞬間、驚きと感銘が綯交ぜになって息が詰まる程に彼の心臓を縛り上げた。長い睫毛の傘の下で待ち人来たらず、それでも待つと決めた儚い意志が覗く目を、心の底から可憐らしくて綺麗だと思った。
とか言ったら蹴り飛ばされるに違いないから、と衝動的にシュナイダーの二の腕を捕まえた自分への言い訳めいた理由に背中を蹴り飛ばされるという、若林的にはオウンゴールみたいな流れでキスが決まった。
唐突に押し退けられて、なにィ!と叫びたくなった束の間を唐突に奪われて、シュナイダーの頭の中が真っ白になる。オーバーラップしたキーパーにゴールを挙げられてはFWの立場がない。お前も上がれと嗾けておいて何だが、本当にするとは思わなかっ……。
(若林にキスされた……)
瞬きを忘れたのも僅か数秒、青天の霹靂で昇天に辟易している自分を持て余して朗色も抑え気味になる。後半のアディショナルタイムに逆転ゴールをぶち込んでやった時みたいに、歓びの赴くまま若林を抱擁してみたいと切に願ったが、こうもしっかり固定されていては身動ぎも出来ず、冗談を一切許さない眼差しに曝されているしかない。
何とかしてくれと目で助けを求めて自分を相手に委ねた。そのシュナイダーらしからぬ、仕方なく遠慮がちに甘える様な表情が意図せず若林の───に刺さって、彼は受けた痛みを相手にも分け与える様に五指を食い込ませた。若林はたった今、相手の言い分を完全に理解した。
キーパーに握力の串を突き立てられて痛くないはずがない。シュナイダーは右肩の下を一瞥する仕草で暗に痛いと咎めたが、恐らく意を汲んで慌てて離れるであろう手が全く動かないから少し訝しげな瞼を作った。
「腕が……痛いんだが」
解っている。シュナイダーが絶対に逃げないことぐらいは。既に顔に出ているなら隠しても無駄だと観念しての、否、もっと能動的な動機が腕に憑いている。目の前に留め置いておくだけの拘束では足りない。
「離、……」
若林から匂い立つ、喋るのを惜しむ様な雰囲気が、理性を据えて抑えつけた、あの勘と愉悦の凝縮が脊髄で孵って全身に拡散する、試合の最中にしか味わえない慄きと紛う程の潮騒を齎して、シュナイダーを噤ませた。腕への虐げが心地好さに掏り替わる。
自分は攫われるのだと悟った瞬間を若林の腕が現実のものにして、相手の情熱に消化不良を起こしていたのが嘘の様、力尽くの抱擁で自分の方が俎上の鯉になっている。極上の息苦しさに苛まれながら、若林の純潔を損ねてしまった様な気がして僅かながら喪失感を味わう。それすらも蠱惑的な負い目となって離れ難さを募らせる。お前の一途がやっとこちらに向いてくれた、こうなればいいとずっと望んでいた、密やかに告白してそっと背に腕を回すと、頭の後ろを右の掌に掻い抱かれ、若林は更にシュナイダーの体を自らに寄せた。まるで一体化したいという意志を持って強い生命力で表面を侵食する蔦の絡みだ。箍が外れたとは正にこれを言うのだ。
俺のせいだという“蠱惑的な負い目”とやらを注いで尚、思う様に酔い切れなくて逆に呑まれる。お前が相手の息の根を止めてしまいそうな激情の虜になれるとは───こんな若林は知らない。感傷的な気分の掠った感銘を受けながら、シュナイダーは初めて若林に微かな畏怖を懐いた。単なる怯えに留まらない、もしかしたらある確信を含んだ動悸をそう勘違いしているのかもしれない。
(お前の好きにして欲しい、と言ったら……どうなる)
今でさえきつく体温を縫い込まれて灼けつきそうだというのに、もっと求められたいと願っている。……知らなかった。自分はもっと賢いと思っていた。
喉の渇きは警鐘でありながら無言で伝えるべきだと駆る様で、膨らんでいく期待の蕾を遂に萎えさせるには至らなかった。
シュナイダーは空虚に指を咲かせて帽子を落とし、躊躇いがちにやんわり爪を立ててみた。
20220101