信玄公が病を得られたやもしれぬ。  時折、然有<さあ>らぬ態で右の脇腹を労る仕草をする。誰が具合を尋ねても「寄る年波には勝てんのう」などと笑って往<い>なし、書状を何通も認<したた>める事に嫌気が差したら逃げる口実に使ったり(偶<たま>にだ)。  何らかを患っているにせよ、噂の狼煙が遠くまで届かないのは、周りの憶測を杞憂で片付ける説得力が信玄自身に備わっているからであろう。相変わらず見た目は壮健、気力の衰えなど毛程も感じさせぬ身の丈八尺の豪快な髭坊主は、病魔も裸足で退散しそうな威容を保ち、強い武田のお屋形様として今日も甲斐の国に泰山の如く君臨しているのであった。  猫に肖<あやか>ろうかという昼下がり。  躑躅ヶ崎館の中曲輪に設けられた自室の看経間<かんきんのま>で、信玄は頭の下で組んだ両手を枕に、脚を投げ出して寝転がっていた。傍には兵棋の代わりに白と黒の双六石を幾つも乗せた領国近隣の無彩絵図を広げているが、頭の中で戦をするのに飽きてしまったらしく、もはや一顧だにしない。  懐から一片の紙を取り出すと、天井に翳<かざ>して眺めてみる。  嘘みたいな話だが、神隠しならぬ紙現<うつ>しに遭った。誰が何時何処で自分の懐に忍ばせたのやら、とにかく気づいたらあった。   心当たりがない、でもない。先日息子が父の平癒祈願に某の寺社を詣でたとか近侍の某から聞いたので、もしかして御利益あったか?  (しっかしなんとまあ。神仏もとんだ悪巫山戯<わるふざけ>をなさるわ)  人をやって呼びつけておいた者の殺した跫<あしおと>が近づいて来るので、廊下に視線を移す。  凛々しい若武者の趣ある美男子が敷居を跨いだ。益荒男<ますらを>振りの眉と手弱女<たをやめ>振りの睫毛で飾る双眸、高い鼻梁に結んだ唇、鬚<あごひげ>の慎ましい居住まい、無骨にも襟の後ろで束ねた総髪すら品を帯びている。意志の勁<つよ>さが匂い立ち、我知らず数知れずそこいらの女子を懸想の沼に沈めてきた容貌は、身の丈を含めて若い頃の信玄に似ている(とお屋形様が申しております)。  彼は滑らかに信玄の脇まで進むと、左の膝を突いて居合腰に座し、腿の上に拳を置いて頭を下げた。  「父上。只今参りましてございます」  行儀の悪い父親とは対照的にいちいち折り目正しい。言わずもがな信玄の後を継ぐ、武田の御曹司様である。  「おう。来たか、四郎よ」  四番目に出来た男子だから輩行<はいこう>呼びで四郎である。諱<いみな>は勝頼という。が、信玄は頑<かたく>なに口にしない。  「わしはどうやら神意を授かったらしいぞ。そなたのおかげじゃ」  四郎は無言でまた軽く頭を下げた。面映ゆいのであろう。可愛いのう。  「まずはこれを見よ」  手渡された紙片に、颯<さっ>と目を通しながら僅<わず>かに難しげな眉間を作る。  さて怒るかな?と信玄が些<いささ>か興がって様子を眺める最中、四郎は依然として手元に生真面目を注ぎ続けている。字の並びを入れ替えたり、真名だけ仮名だけ、逆さからも読んだりしとるんだろうなあ……。可愛いのう。  「これは如何なる意味にございましょうや」  やっと匙を投げた。取り乱す姿を人に見られたくないのか、えらく落ち着き払っている。信玄は少しがっかりした。  が、すぐに気を取り直してよっこらしょと半身を起こし、四郎の間近までひとつ躄<いざ>って胡座<あぐら>をかくと、ひょいと紙片を取り上げた。  「わしがここに書いてある通り致せば、否応<いやおう>なくそなたにもわかる事よ」  は、と敏<さと>い返事をした口に、伏せた視線の先から現れた右手が触れた。  顎を掬われ、親指が唇の端を圧す。  「日に三度とな。やれやれ……。わしがもうちと若ければのう」  爪を歯に立て、指頭を唇にやんわりと噛ませる。  右手に瞥<ちら>と四郎の目が降った。  (諌めれば無理強いなさらぬであろうに)  わかっていながら、そうしない……できない……否、したくない。  戯れる手を努めて冷たい眼差しに晒しても、口から洩れる寝息の様な静けさは、潜みきれない熱で浸<しと>み、不本意にもそれを指爪に孕ませてしまう。  (端無<はしたな>い。……)  比べれば信玄の方が余程その品評に相応しいのに、四郎の矛先は己に向いている。  実は此処に呼ばれた時点で察してはいた。信玄の自室には余人を招かずという暗黙の掟があり、誰かの気配が思案の妨げになるのを嫌って、すぐ外の廊下に奥近習すら置かない。  期待を抑えきれない我が身の強欲が疎ましい。この御方を父と師とお屋形様と仰ぎ慕うだけでは足りないのか。声が慄<おのの>きそうでみっともないから言えずにいる真意がまるで媚びる様だ。この四郎めが父上の薬となれたら本望にございます、と。  聳<そび>く睫毛の庇の下で端座する目を、つい覗き込みたくなる深淵の冥さで装う、その緊張を薄ら刷いた従順が信玄の支配欲には心地好い。ふらり誘<おび>かれて堕ちるも良いが……………………ぐるり刳<えぐ>り出して貪ってしまおうか。  好奇心がいきなり牙を剝いて頭をがぶりとやるので、四郎があまりに可愛い所為であろうと御満悦気味に合点する傍ら、絵図の上に双六石を打つ時の様にぱちりと勘が弾けた無粋を嫌って、情緒めかした形に掏替えた己の心の動きにも何となく気がついている……。  四郎は息を呑んだ。向けられる眼差しは依然として興を弄びながらも訝<いぶか>っている。咎めているとは思わないが問われている気がする。神意とは、誰の真意か。  「ふふ……。そなたをして諏訪明神が賜りし薬とは、言い得て妙じゃな」  綻ぶ信玄の表情とは逆に、四郎の気色は顔に冬の諏訪湖の水面を施した。と、同時に二人して「お屋形様もお人が悪うございますな」と笑いながら窘<たしな>める家中のおっさん連中の幻が見えた。諏訪上社の大祝<おおほうり>を務める諏訪氏の惣領家の娘を母とし、一門の庶家を継いでいた縁を指して揶揄<からか>っただけ、などと言われた当人が額面通りに受け取れぬ心持ちを知っているから巧い事言って尚可笑しいのであろう。少なくとも四郎はそう思った。  夜半の室内で隠微な気配に撫でられた、蠟燭の焰<ほのお>の様な揺らぎが黒目を舐めた。  おや?と思った時にはもう、何を考えているのか相手に悟らせない為だった色が恰<あたか>も漆を刷いた様に化けている。真剣な目一杯に翻<ひるがえ>る艶の、打って変わって訴えかける強さが半ば脅しに近い。  信玄は若干面喰らいつつ妙に感心した。  (とんでもない目力しとるな)  眼窩<がんか>に嵌<はま>っているのは、身を委ねる覚悟に狼狽やら含羞<がんしゅう>やらが蕩けて、頑是ない一途さに煮詰まった飴である。こんなもの、逸らしたら負けだとばかりに利かん気起こして差し出されては、毒でも食指を動かさざるを得んではないか。  「さて……。神の思し召しなれば、わしもそなたも拒むは罰当たりぞ」  唐突に四郎の肘の下を摑んで、ぐいと引き寄せる。突踣<つんのめ>った上体を抱き留められた瞬間、四郎は呼吸の仕方もつい先刻までの思料も忘れた。  狼狽<うろた>える暇も与えられず、耳の中に囁きを捩じ込まれる。  「今よりわしを父上と呼んではならぬ」  父の下知は常より抗い難い力を宿して、従う以外の何事も拒む体に熟<う>んでいく感覚がある。袂<たもと>を指で獅噛んでも弱々しく、歯痒い。なのに吸ったり吐いたりだけは落ち着きがなく、抑えようとすればするほど溢れる息に溺れて苦しい。  「お屋形様……」  その乱れを押し退けて肩口の襟に呟きをしとりと垂らすと「いい子じゃ」と上機嫌の低い声が慰める様にも嬲る様にも鼓膜を擽る。逆らえない事の悦びを諭す香りと聞こえて愈々<いよいよ>手足が萎えていき、微醺<びくん>に漂う間に、預けた体が床に寝かされ、覆い被さる入道の雲影を仰ぐ。  「許せよ。勝頼」  何か言おうと仄めく唇に親指を辷<すべ>らせて邪魔をする。注がれる信玄の表情は優しい。言わずとも分かっている。…………。そう悟った途端、ひれ伏したくなる様な、縋りつきたくなる様な、言葉に噎<む>せぶ感銘の潮が四郎の胸を満たした。  紅潮した頬が、遠慮がちに掌に摺寄せる仕草で堰<せ>かれた口の代わりをする。赦しを請うものとも、愛撫の雨を希<こいねが>うものとも、手に享<う>けた叙情の思ったより煽情的な響きに信玄は蹌踉<よろ>めきを覚えた。  我が至高の逸材と呼んで憚らぬ四郎は、高邁で堅物で賢くて我儘で負けず嫌いで、時に愚かしくも大胆な事をしでかす。欲しいものを手に入れる為なら卑怯も非道も厭わぬ気概をも奮うとは知らなかった。自分によう似たものだ。  尤<もっと>も自分亡き後の甲斐を託す立場としては、願わくば戦略に役立てて貰いたい……信玄には多少苦笑の心模様であるにせよ、そうまで求められたとあっては、好きなだけ呉れてやりたいから、掌中の珠を愛でる背徳に目を瞑って、ここはひとつ騙されておく。  (可憐<いじ>らしい事よ。この信玄を我が物にせんと謀るはそなたぐらいのものじゃ)
20231030