武田四郎勝頼が伊那から府中に迎えられて早や半年が過ぎようとしていた。
初日から甲斐の国中より集いし猛者の巣窟に放り込まれ、泥垢に塗れて取っ組み合いの鍛錬に明け暮れる日々にも慣れてしまった。
近頃ではぼちぼち寺にも通い、座禅を組んでは和尚に肩をしばかれている所為でどうも肩凝りが酷い。
殊勝な心がけよと褒める父上が手を出してくれたら行かずに済むのだが……とも言えず悶々として、いっそのこと抱いてくださりませとスライディング土下座でもかましてやろうかと自棄になったタイミングで警策が飛んでくる。
身勝手に募らせた欲求不満と肩凝りを武田道場で黙々と発散していると、今度は監督を務める山県昌景に上達を褒められる。信玄の跡取りだからこれくらい当たり前だと極めて無感動な表情で称賛を聞き流して、褒美に父上が手を出してくれたら一人で五万の敵を打ち払えるのにと思う。煩悩の無限ループに陥った勝頼にはいつしか傲らない立派な若様よとの評判が立っていた。
煩悩即菩提の境地が天竺の遥か彼方にあろうと、勝頼の表情は毎日きりりと引き締まっている。母親譲りの美貌に周りはつい見惚れてしまうが、親しみ易い雰囲気は感じられない。口数も少なく、何を考えているのか察し難い人なのだが、そこがいいのよ〜と庫裏の四郎様クラスタは包丁を研ぎながらはしゃいでいる。
一方では近習が常に神経を研ぎ澄まして静かに摩耗に耐え、僅かでも貴慮を汲み取ろうと、主の端正な顔を一瞥二瞥三瞥と盗み見しながら脇に控えていた。
勝頼が上座に胡座を組んで半刻ほど経っただろうか。
真正面を見据えて微動だにしなかった彼が不意に小さな溜息をついた。若い近習は何かお声がけあるやもしれぬと居住まいを正したが、勝頼は一向に気がついていない。
(衆道。衆道か)
畏まっている近習が聞いたら爆発四散しそうな二文字を看経しながら父に想いを馳せる。
身分高き者の嗜み。かの信玄も若かりし頃は浮気心の赴くまま幾人かの美童と戯れ、一国の主でさえ嫉妬に狂った若い子から詰められて、言い訳を並べた詫び状を差し出してしまう修羅の道である。
そんな昔の与太話を酔っ払った穴山信君から面白半分に聞かされた勝頼は、居ても立ってもいられなくなり、行水しまくって井戸の水を無駄遣いしたものだ。いくら閨を共にする仲とはいえ、父上に詫び状を書かせるとは何たる不遜!
主従を超えた糞厚かましい度胸は、信玄を崇拝してやまない勝頼の忠義心を弥が上にも苛つかせて嫉妬心に変えてしまった。
男を味わった経験はない。戦国武将の必須科目というわけではないし、自ら試す程の興味もないし、人から薦められもしなかったからである。しかしお屋形様のお情けを望むなら、男同士の閨の作法を、せめて聞き齧ったぐらいにでも知っておくのが礼儀ではあるまいか。夜の初陣を迎える前にまずは具足備えからだ。
父に倣わんと何事にも学ぶ姿勢で臨む勝頼だから、教えを請うて恥じはしないが、そんなもん一体誰に聞けと……。いやらしい意匠の前立がついた兜を用意する気分だ……。
肘掛けに下膊を乗せると、人差し指でトン、トン……徐に叩き始めた主を見て、下々の者には及びもつかぬ思案を巡らせておられるのであろう……近習の推察はある意味的を射ている。
(穴山に相談しようか……)
でも多分冷やかされるからやめとこう。
さっさと一人合点して、うん、と頷く。
(山県昌景はどうであろう)
それがしがお相手仕りまする!と即脱いでくれそうで危ないからこれもいかん。また一人合点して今度は首を振る。
(おお、そうじゃ。千代なら父上を悦ばせる手練手管を熟知していようぞ)
信玄に甚く重宝がられている武田家お抱えの歩き巫女。膝枕されて寛ぐ父に、微笑む彼女が団扇でまったりと風を送っている、何度か目撃した微睡っこしい光景を脳裏に再現して……否!勝頼は固く握り締めた拳でいきなり肘掛けを忌々しげにドン!と打った。
近習は恐れ慄いてびくっと肩を竦ませた。顔は平常運転である。お怒り……なのだろうか?
突発的な行為の意図が摑めず焦っていようが主は気にしない。
(いっそ……試すか)
武田家の御一門衆でも諏訪の姓を名乗っていた頃の勝頼は国衆扱いの上に若輩で、軍評定でも常に末席に控えていたから、側室腹ながらお屋形様の御子息という血筋を濫用するなど考えたこともない。しかし知らぬ間になんだかんだあって序列が一足飛びに飛び、信玄の跡目となってしまった今、勝頼が気を向けるだけでそれこそ振り返らずとも奴はいるのである。
と思えば早速おるではないか、手頃な輩が……。
勝頼は視線を流した先に顔を向けた。怯えてその顔色を窺っていた近習は、え?と声が転げ落ちそうになった口の形を直せないまま、強い目力と正面から対峙した。眼差しというか眼刺しというか。
凝と見詰めに見て詰められ、どれほど時が流れたのか、心の臓の早駆けに喉が乾いて無意識にごくりと生唾を飲み込む。自分が何か粗相をしたから責めておられるのか?お聞きしたいが蛇に睨まれた蛙に口は利けない。近習は泣きたくなってきた。
「……なんじゃ。別に取って食おうなどと思っておらんぞ」
思ったがな。勝頼は心の塵箱に吐き捨てると、肘掛けに頬杖をついて、ちょっと和んだ表情を投げてやった。近習は安堵すると共に、主にしては珍しい言動に新鮮な驚きと喜びを与えられ、さっと頬を赤らめて俯いた。
その初々しい反応を、いつから置いてあるのか知らない床の間の壺を見る目つきで眺める勝頼は、既に反省の真っ只中にいるから、見ている様で見ていない。
所詮愚かな気の迷いよ。父上に抱かれたいからといって他の男に自身を抱かせるなど言語道断、全く本末転倒もいいところだ。
(わしの初めては父上でなければならん)
うん、と意気を込めて頷く。上目遣いで様子を窺っていた近習はハッとして、こくりと小さく頷き返しながら、主と初めて心が通い合った気がしている。
(ならば如何にして本懐を遂げるか……)
初陣を迎えられるかどうかも怪しいのに、具足備えの心配をしている場合ではなかった。いやらしい意匠の前立つき兜が間に合わなければ鍋被ってでも出るつもりだからもういい。
信玄に何かの間違いで手を出して欲しいと期待して悶々していると寺タイムに突入するので、どうやって手を出させるかを考え始めたものの、開始二分で撤退した。無理。
「気が乗らんな……」
さすがに畏れ多くて思案が捗らない勝頼である。己如きの仕掛けた罠に嵌る父上でもなし。
八方塞がりである。
どうする。
(…………………………)
車懸の陣の様に何かが色々と駆け巡っているが、どれもこれも正体がない。今日はまだ一度も信玄の姿を見ていない。用もないのにお屋形様への目通りは叶わない。かといって無理に用を作ろうとは思わない。父子であっても子の方からの気儘は許されない。弁えを知らないで自分に失望したくない。何より父を失望させたくない。勝頼は誰よりも信玄に近いから誰よりも遠慮せねばならなかった。
だから信玄に何かの間違いで手を出して欲しいと期……。
……。
……。
馬鹿な……。回避したはずの寺タイムが正しい解釈に誘導されて戻って来る……。
頭を抱えたくなってきた。父子の縁は業となり誇りとなり勝頼を振り回す。もはや自分が面倒臭い。いっそのこと抱いてくださりませとスライディング土下座でもかましてやろうかの精神が襲ってきた途端、上半身が勝手に肘掛けから飛び退き背筋を張る。
「どっどうされました!?」
近習も仰天して思わず身を乗り出す出し抜け具合である。
「……どうもせん」
目も呉れずしれっと言いながら実は自分がいちばん驚いている。セルフ制裁を発動してしまう辺り、寺に通っている効果はあるようだ。少しは解脱した感がある。
(やはり己の心に嘘はつけんな)
五万の兵を相手に衆道を極めるより、父上お一人に純潔を捧げて死にたい。たとえ想い報われずとも……。後ろが生涯童貞でも……。
だが……退いてしまってよいのか。
と深刻そうに自問してみたが、己の心に嘘はつけないので、最初から退く気など毛頭ない。はっきり言って信玄の頭の毛ぐらいない。
(父上を攻略するより道はない)
さっき二分で放り投げたやつ……。
難攻不落の城郭を初陣に選んでおいて言うのも何だが、心の迷いを晴らしたら悩みのハードルが上がるとは理不尽にも程がある。それでも戦上手の父上に夜襲で背後を突かれて昇天、違う、逝く、違う、いや違わんのに何故こうもいやらしいのだ……総崩れの討ち死にとしておこう、たとえ愚か者と誹られても最期はそうありたいと望んでいるのだから仕方ない。
(畢竟人は己のやりたい様にしかやれんものよ)
遂に肚を決めると賢者タイムが訪れた。為せば成るの精神に後押しされて勝頼はすっくと立ち上がった。
近習が見上げたご尊顔の凛々しさに視線を夢中にしていると、主は突然「御旗楯無ご照覧あれ」と力強く宣った。この声明にパブロフの犬と躾けられている彼は、我に返り慌て謹んで平伏した。……あれ?戦の予定ありました?
後に、心穏やかなれど頭働かずでは救いにならんではないか!と苦悶した挙句、どうするの四文字を念仏に唱える宗派を開基して、セルフ寺通いしてしまう煩悩ライフが勝頼をお迎えするのであった。
合掌。
20240223