昨夜未明、甲斐の府中を地響きが襲った。  先代信虎様が石和いさわから館をお移しになられてからというもの、敵方の馬蹄に蹂躙された記憶のない街である。寝静まっていた住民は何の前触れもない非常事態に魂消たまげて飛び起き、家に籠もったまま震え慄いていた。  翌朝、彼等は各々おのおの近所の辻に集まり、正体を噂しあった。格子戸から恐る恐る外を覗いた勇者が言うには、旗指物はたさしものも人馬の姿も皆目見当たらず、路地が川の様に波打って、凄まじい勢いで流れていたという。誰もが不気味な地響きが去っていった北の方角を不安げに眺めていた。  街の北、国衆のお屋敷が並ぶ区域を過ぎると、信玄様がお住まいの躑躅ヶ崎館つつじがさきやかたがある。  南の方角から地響きが迫り来て、黒い塊の群れが砂塵を上げて突進してきたと思いきや、勢いで両脇に立つ門番と固く閉ざした門扉のかんぬきをぶっ飛ばし、大手口に吸い込まれていった。やぐらから尽きるまで射かけた矢は群れに当たると全て折れてしまい、食い止めることあたわず……と無念がって御前で片膝立てて報告する若者は、ぶっ飛ばされて宙を舞った体を群れに乗せられ中庭まで運ばれてきた門番の片割れである。  信玄は聞きながら可笑おかしくて仕方がない。  「して、数は」  「おおよそですが、千は下らぬかと……」  「だそうだ。間違っておらんかな」  門番の隣に立っているお供に問うと、信玄を見上げてニャーと返事をした。  篝火かがりびが明かした正体は猫である。  しかし闇夜に紛れては鳴き声でも聞かぬ限り猫と判別つくまい。腸切はちきれんばかりに丸々と肥え太って腹で地を掃きそうな胴に、小さな顔と尻尾のお飾りがちょこんとくっついて、いっそ転がった方が速いのではと思うほど脚が短い。  この得も言われぬ愛嬌に満ちた太り肉の猫が、大群で押し寄せて躑躅ヶ崎館の大手口を突破した……きょとんと見上げるお供の三毛を眺めながら想像する信玄の顔には、胃の腑に溜めておけない笑いが染み出ている。角力すもうでも取らせたらさぞ面白かろう。  「直ちに追い払いまする」  門番は頭を下げた。視線の先で鯖虎と雉虎がつぶらな瞳を向けていた。  信玄は二匹の猫と見つめ合い固まっている門番を見て、とうとう声を上げて笑った。  「ハッハッハ……。そう邪険に扱わずともよい。そちは猫が嫌いではないようだが、わしもじゃ。まあしばらくは様子見といこうではないか。閂はしかと直しておけ」  懐深い下知をしてから、手水ちょうずを済ませて払暁を迎えた。早速、朝の散歩がてら曲輪を一巡りして様子を探ってみる。金玉のついているのやらいないのやらが、柄という柄を網羅し、何匹いるのか数える気も失せるほど彷徨うろついているのを目の当たりにして、ちょっと後悔した。  櫓の見張り番からも報告を受けたが、数は千と言う者もあれば二千と言う者もあり定かではない。どうせ数多あまたには違いないから同じことである。自身が見たところ、そんなにいるとも思えないが、隠れる場所は幾らでもある。  「やれやれ……。虎の住処が猫屋敷になってしもうたわ」  散歩を終えて常御座所つねのござしょの前まで戻ってきた。観経間かんきんのまと称するお屋形様の御くつろげ所、いわゆる自室である。  御座所前の回廊から中庭に向かって嘆息し、中に入ろうと足を向けたら、いつの間にか真下に寄って来ていた白腹の茶虎を蹴っ飛ばしかけてしまい、慌てて止まる。  「おお。すまんすまん」  信玄はしゃがむと大きな掌で小さな顔を掻い繰り撫でた。目線が低くなったところで改めて回廊を見回すと、太り肉の大半は胴の下に足を折り畳んで座し、立っている時と大して変わらない姿勢で大人しく寝ているが、大きな欠伸をする奴、板敷で爪磨ぎする奴、体を擦りつけ合っている奴、尻穴を嗅ぐ奴、嗅がせる奴、捕まえた小さな家守を夢中になって前足で転がしている奴……庇から転げから落ちてきた奴は地に背を叩きつけられ鞠と跳ねた後、何事もなかったかの様に散策を始めた。  「…………」  はー、と長大息をこぼしてしまった気分に流されて縁側に胡座あぐらをかく。中庭を走る遣水やりみず細流せせらぎで喉を潤す奴を見ていると茶が欲しくなってくる。まったく呑気なものじゃ。  寛ぎまくっている太り肉共を羨ましげに観察しながらふと気がつく。柄は違ったり似ていたりでも、顔と寸法は鏡で映したかの様に皆同じである。銅銭か玉薬の方が個性を感じるくらいだ。生き物らしくない。  ちょっとした不気味さが猫について色んなことを問わせる。そういえば何故こんなにも肥えているのだろう。人も牛馬も多くが痩せている土地の何処に、これだけの数を肥えさせる餌があるというのか……。  (死肉か)  ならば餌は文字通り腐るほどある。戦死者と餓死者と病死者が絶えない国だからこそ、体が富んでいる……。  (そもそもこんな五升の餅の如き猫、国の者が見たら言わずにおかぬわ)  鷲や禿鷹、野犬や烏に交じって人の死骸を喰らっている目撃談があれば、峠も棒道となって噂が走るに違いなく、うに信玄の耳にも届いているはずだ。所詮は辻褄合わせの憶測に過ぎない。しかし太り肉の猫が甲斐、ひいては己にとって皮肉の象徴やもしれぬと思えてきたので、どうもいけないと自身をたしなめて、無邪気な四つ足を悪し様に捉えた罪滅ぼしに、頭や体を丁寧に撫でた。  「すまなんだのう。そなたらに罪はない。全てはわしの猜疑心ゆえのことじゃ」  馬蹄だと思った地響きが肉球だったから笑い話で済んだが、正直肝を冷やした。  槍を携えて寝所から飛び出す前、真っ先に頭をよぎったのは謀反である。  (ふふ……。わしは誰を疑ったのかのう)  時々自身でも嫌になる勘の良さが誰を当てたのか、朧な面影を記憶に尋ねていると、撫でられるに任せていた白腹の茶虎が手元を離れた。目で追って振り返ったら、御裏方とを渡す透廊すいろうから太り肉の群れが大車輪の短足で音もなく突っ込んで来たので喫驚びっくりした。  猫は縁側の信玄を避けて、鉄砲水の様に回廊を南へと走る。通り道で長閑のどかに過ごしていた仲間はことごとく呑まれて流されていった。  角を折れるまで無数の丸尻を見送る。彼等が駆け抜けた後の回廊は朱印の如く捺された赤い足跡で埋め尽くされていた。  今度こそ御座所に引っ込もうと、どっこらしょと立ち上がった瞬間、一陣の風に全身を煽られて思わず目を眇める。  板敷から足跡が一斉に剥がれて舞い上がった。  空も庇の下にも季節外れの紅葉が踊り、やがて天がはらはらと泣く様に、瞠目する信玄に降り注ぐ。  なんと美しい。  幻想的な光景に心奪われた隙に、紅い花嵐が不信の面影を連れ去ってしまった。  味噌作りの道具を取りに回廊を表の方から御座所裏の庫裏くりへと行く途中、信玄は不意に足を止めて振り返った。  錆の太り肉と目が合った。手招きしても来ない。  少し歩いてまた振り返った。太り肉とまた目が合った。鯖虎が加わっている。  太り肉の猫は振り返る度に同じ距離を保ってけながら一匹ずつ増えていく。  裸足で庭に降りて足早に歩く。猫はついてくる。歩くのは恐ろしく遅いくせに、走ると意外に速いのである。目的の庫裏は遠くなり、西曲輪に抜ける門の前まで来てしまった。  全ての曲輪を一巡りしてもけそうにないので観念した。すると八匹の太り肉は立ち止まった信玄の足を取り囲んで何事か訴える様に鳴き始めた。  猫語は解らないが、飯食わせろくらいしか言いたいことはないだろうと思い、再び庫裏へ行こうとしたら、右手側に建つ御旗屋の脇から現れた、背中が耀かがよう真白の太り肉に目を奪われた。  「騒々しい者ども。黙りやれ」  一喝された太り肉共は鳴くのを止めたどころか、身動みじろぎひとつしなくなった。   喋ったのは太り肉の猫ではなく、玉飾りを施した蓮台ごと猫の背に乗る、身丈四寸の、黄金をちりばめた木像であった。膨やかで肝の据わった御尊顔をした仏が武装した姿で結跏趺坐けっかふざしている。  兜は鍬形の前立に獅噛しかみの飾りがどんと鉢に乗っかり、焔を散らした頭光に照らされている。首から下は截金きりかねつぶさに文を施した古代の具足と袈裟懸けの天衣てんえを纏う。右手に剣、左手には菱紋透彫の入った身二坪の幡を吊った竿を持っている。  「これはこれは、勝軍地蔵様とは頼もしい横槍じゃ。感謝致す」  府中の北方に勧請した社から訪れた客神である。愛宕権現あたごごんげんともいう。主郭の鬼門を護る三神───不動堂の不動明王、毘沙門堂の刀八とうばつ毘沙門天、飯縄いづな堂山の飯縄権現とは茶飲み友達である。信玄が推し神様と祀り上げまくるので、最近では毘沙門堂に半ば居候している。聖道小路しょうどうこうじに構える住居には、留守の間、自身の石像を身代わりに置いているとか。  「信玄公ともあろう者が、猫のあしらいに手古摺てこずるとは、異な」  軍神の気質なのか、か弱い者を慈しもうとする心が腑に落ちないらしい。だが徹底して非情というわけでもない。掲げている大幡は戦死者への弔意を示すものである。人の世の戦に用いる旗印と同じく威厳を示す為に武田の家紋を彫らせたのは信玄の意向であった。  「まこと、女子でないのが惜しいほど懐かれておるようで」  「何頭かいるようだが」  要するに戦に関わること以外は結構雑に捉える性格なのだった。  「ひと。人がようござる」  奉る神々の間で「此処の屋形は女子なら猫が相手でも構わぬらしい」とか何とか誤解されても敵わないので一際念を押しながら、冗談が通じない者に言った冗談は時として嘘になってしまうことを学んだ信玄であった。人なら別に男子でも構わないのである。  「そうか。余は気に入った。馬を休ませてやりたい故、しばらくはこれを足にする」  きゅっと引き締めていた唇を綻ばせて告げると、竿を小刻みに振り、真白の顔の前で幡を散見ちらつかせる。真白は翻りを目で追い、前脚を出して捕まえようとする。ただ短過ぎて全然届かないのだが。  信玄は猫釣りに興じる推し神様を微笑ましく見つめていた。緋色の厚総あつぶさに金の鞍と障泥あおりを備えた常の立派な白馬だと、背には乗せても遊びには乗ってくれないから、勝軍地蔵には猫が面白いのであろう。竿を右へ左へ、猫の目鼻に降りかける小さな金色の閃きが、野の花と戯れる蝶の様だ。  楽しそうに竿を振る勝軍地蔵の手が止まった。  幡が、風を受けた吹流しの様に靡いている。向きは斜めに後ろから前へ。しかし風はない。勝軍地蔵が竿の先に注ぐ視線は心做こころなしか険しい。  「如何いかがされましたかな」  「ふうむ。誰ぞ呼ぶものと見える。余の眷属けんぞくか、あるいは」  騒ぐ幡の金色が反照甚だしく針の様に信玄の目を刺して、至る所に蛍の明滅が泳ぐ。虫の知らせというが、百足ムカデの報告と違ってえらい不得要領だから困る。  「解せぬ」  幡が荒れて遂に竿と立場が逆転した。何が釣れたのやら、竿は幡に引っ張られて、大物が掛かったたわみ具合である。真白は前脚を突っ張って踏み留まろうとするが、焦躙じりじりと土を掘り起こしながら引き摺られていく。  信玄は幡の靡く方へ振り向いた。御旗屋の中央の蔀戸しとみどが跳ね上げられていた。中は真っ暗闇で窺い知れない。  本陣に配備する色々な具足や旗指物が格納されている建屋に、屋形の許可なく立入ることは固く禁じている。当然ながら来た時は閉まっていた……はずだが……と不審がったのも束の間、蛍火が尾を引いて、口を大きく開けた建屋の中へと吸い込まれていく。金色の光は蔀戸を潜っては次々と消えていった。信玄の視界は元通り晴れた。  「む。尚も退かぬか。已むを得まい」  勝軍地蔵は信玄の足元の太り肉に一瞥を呉れた。再び鳴き声が乱れ咲き、そのうちの右足の横にいる、灰色の胴に白足袋を履いた猫が幡に飛びついて発止はっしと両手で叩いた。途端に幡は大人しく身を垂れた。  「御旗屋に何ぞ潜んでおりましょうや」  「居て欲しければ居る。んで欲しければ去ぬ。何かは扨措さておき、余の相手ではなかったという事であるな」  灰の白足袋がニャーと相槌を打つ。その顔を見下ろした勝軍地蔵は微笑んで微かに頷いた。  「そちにも解るか。宜しい。供を許そう。ともがらもついて参れ」  真白が踵を巡らす際に「では信玄公。これにて」と辞して、元来た道へ進んでいく後ろ姿を、信玄の足元の太り肉共が追う。将軍地蔵を旗頭に粛々と付き従う行列はまるで戦に赴く足軽である。やはり行軍はものすごく遅いのだが。  殿しんがりを務める白黒の八割れが御旗屋の角に隠れるまで手を合わせて見送る。相手に恩を着せまいと、自身の発意からということにして猫の相手を引き受けてくれたのであろう。  と信玄は思い込んでいるが、勝軍地蔵は単に猫と戦ごっこをしたいから連れて行ったのであった。知らぬが仏。  やっと平穏が訪れ、一人残された信玄は禅問答の様な答えをどう捌くか思案した。扨措かれた何か次第で居て欲しいか去って欲しいか心が決まるのだが……。  蔀戸の奥の墨で塗り潰した様な黒さに目を凝らしても相変わらず何も見えない。目が疲れた。  そして信玄は遂に気がついてしまった。別に中に入りたくなければ入らなくても構わないということに。彼を悩ませていたのは勝軍地蔵の言葉ではなく、何かの正体を確かめてみたいという己の好奇心であった。  (されば全てはこの信玄の心次第よ。いようが去のうが、わしの欲するところなれば障りなし。御旗楯無ご照覧あれ)  果断にも大股で御旗屋に近づき、平然と蔀戸を潜る。  一寸先は闇。振り返るとやはり外はまだ陽が高いのに、光は完全に遮断されている。  行くと決めて家宝に誓約してしまったからには引き返せない。とりあえず真っ直ぐ歩く。腕を広げても物にぶつからない……歩数は百を刻んだ。本来の奥行など既に超えている。  (無がおるのか。何かが去んだ故に無か)  またしても禅問答に行き当たってしまった。剃髪した頭を掌で二度三度叩きながら、我知らず「参ったのう」と呟く。何かがいるに違いないと思い込んでいるから両方が正解になってしまい、片方を選ばなければならないと思い込んでいるから悩んでしまう。思い込みを捨てると最初から中に何もいなかったという答えに落ち着くが、この建屋を発端とする様な怪奇現象を目の当たりにしたからか、どうも腑に落ちない。  (それともわしの心が在るものを無きものに見せているのか……?)  省察を拒絶するかの様に背後で酷く物を打ちつける重鈍い音が響いた。瞬時に戸が降りたと判断しながら振り返る。しまった、閉じ込められたか。  ぱっと視界が開けた。余りにも唐突だったので呆気に取られて場所がすぐには判らなかったが、間違いなく本主殿の中である。  目の前で太り肉が一匹、信玄に尻を向けて右に転がり左に転がり、痒いんだか興奮しているんだか、全力で床に背を擦りつけている。見ていると気分が和んで、無限の闇の中で小難しい考えに憑かれていたことが夢の様に思えてくる。  仰向く白い腹の四隅で短い脚が暴れている。起き上がれないらしい。手を貸してやろうと腰を屈めると、体型に似合わない俊敏さを発揮して、横に一回転飛び跳ねてドスンと着地した。  顔の向きを反対に変えて信玄と真正面から対峙し、彼を驚かせたことには、額の真ん中に堂々と捺された黒い模様がなんと花菱である。親の顔より見た家紋。  白い胴を撫でつけて乱れた毛並みを整えると、荒れた模様の縁が綺麗に浮かんだ。数えてみると全部で十三。額の紋だけが小さく、胴には鍔くらいの大きさで不規則に点在している。  信玄は四菱の質実剛健な感じも好きだが、花菱の華やかさも好きである。家宝の楯無と同じ紋だし、縁起物かな。  「そちはどこから来た。名はなんという」  親近感から戯れに話しかけてみる。まあ、ニャーとしか言わんだろうが。  「」  思い込みを覆して、口から音をひとつずつ零し、何とも気持ち悪い節で猫が喋った。  さっぱり意味がわからない上に、聞いた覚えがなさそうでありそうな声に信玄は首を傾げた。  本主殿の前に開かれた京風の庭を望む。  東角には的山あづち、隣には景観から雅趣のない土塀を隠す築山が裾を泉水に浸し、水鏡に濃淡の緑鮮やかな逆さの姿を映している。西角に建てた四阿あずまやの二階に上がって泉水を俯瞰すると、不思議な地面の奥行きが一層深く、しばしこの世の憂いを忘れさせてくれる懐を見せる。何度見ても飽きない、嘆美の溜息を誘われる信玄自慢の庭である。  泉水のほとりに佇む者がいる。丈高く、しゃんと伸ばした背筋に沿って、腰まである長い結髪を一房、馬の尻尾の様に垂らしている。  あんなに長く美しい黒の尻尾を携えている男子は家中にはいない。遠目にでもすぐに判る四郎勝頼の後ろ姿である。  府中におるはずがないのに、はて。信玄は首を捻りつつ、近習に履物を持ってこさせた。畔まで来て、四郎と少し距離を置いて脇から観察する。  四郎は泉水の素晴らしい景色に全く興味を示さず、ひたすら築山を眺めている様である。といっても調和の取れた木々の濃淡を愉しむ目はしていない。  人の背丈程の巨大な緋鯉が四郎の足元を横切って水底に消えていった。  水面に映る逆さ築山の線と色が波の余韻で縮れ、散り散りになって沈んでいく景色の欠片を、再び浮いてきた緋鯉は大きな口を開けて泳ぎながら呑んでいく。緋鯉の顔が正面に来た時、黒い大きな穴に我が身まで吸い込まれそうな感覚に襲われ、危うく泉水に落ちてしまうところだった。  景色を食い尽くした緋鯉は築山の裾に潜って去っていった。後には何も映らない水鏡だけが残った。  「築山になんぞあるのか、四郎よ」  近寄りながら尋ねるとやっと気づいた四郎がこちらを振り向いた。  長い睫毛を日除けにして涼む目と、くら褐色かちいろの肌。突き出た鼻にぴんと立つ耳。精悍で美しい馬の顔首が人間の体に乗っかっている。背後に控える近習二人も揃って顔首だけ青鹿毛である。  「父上。お召しにより参上仕りました」  四郎は館主からの突然のお声掛けに慌てる風でもなく、後ろの二人と共に、地面に左の膝をつき、居合腰で一礼した。  「わしは呼んどらんぞ」  「千代を伊那に遣わせたのでは?」  はて。そうだったかのう。見上げる黒鹿毛の顔を眺め、長いあごひげを撫でつけている間に記憶を辿ったが、どうも曖昧である。まあ最近は召さずとも色んな者が館に出入りするので、召したかどうかの疑問などもはや些事である。  そういえば四郎は一昨日もいた気がする。成程、奥や庫裏の端女はしため共が何となく御機嫌だったのはそういうわけか。  「まあよいわ。折角だから勝軍地蔵様に将棋の腕でも鍛えて貰うがよい」  「は。後程ご挨拶に伺いまする」  「ところで先程から熱心に築山の何を覗っておったのじゃ」  「は。どうもこの裏手で男がずっと歌っておるような気がするのです。父上には聞こえませぬか」  四郎は立ち上がって築山の頂を仰いだ。信玄の視線も釣られて眺める。全く何も聞こえてこない。馬の耳にも判別が難しいのに、人間には言わずもがな。  しかし諦めず耳をそばだてていると、読経の様にも聞こえる音声が風に乗って微かに流れてくるではないか。それが徐々に大きくなり内容を伴ってくるに従い、お天道様が落ち始め、はっきりと聞き取れる様になった頃には夜の帳が下りて、空に座す円が月に代わった。  「え〜び〜すくい〜えびすくい〜か〜わ〜ま〜た〜どこら〜ほどにおりゃしゃあす〜ふなあゆ鮒鮎鮒鮎鮒鮎」  (鮒と鮎しかおらんのに蝦掬いとは、難儀な奴じゃて)  築山の裏には主郭の南をコの字に囲む通路を挟んで、高さ十尺程の土塁と、幅約九間、深さ約四間の水堀がある。館の外で最も近い水場といえばそれだが、人の背丈で底に足着くはずもなかろうに、如何にもそうしてざるを手に水面を探っている様子を彷彿とさせる詞である。  「堀で蝦を捕りよる呆気うつけでもおるのか」  「まさか……。踊ってでもおるのではないでしょうか。酒が過ぎたか、あるいは時候柄、陽気病みかもしれませぬ」  「まったく酔狂なことよ」  清けく照らす月に辺りが白く染まり、生暖かい風が肌を撫でる陽気な夜が、四郎の推測に信憑性を持たせる。  「あの調子だと我に返った時には身投げしておるやもしれんのう。南無阿弥陀仏」  「さもありなん。南無阿弥陀仏」  二人揃って片合掌すると、背後で水面を叩いて騒がせる音がする。振り返ってみたら泉水の一面に小蝦が踊って煌煌きらきらしく水が跳ねている。  「おーい。蝦はここにおるぞ」  信玄は声のする方を揶揄からかった。すると少し間を置いて相手が返事をした。  「あれま。全く捕れんと思うたら、お館の内でございましたかあ。さすればお屋形様が昇仙に行かれた時にでも、伺いに上がらせて貰いましょうかいのう」  「屋形が逝こうが逝くまいが、そちが館に入ることはまかりならん」  ドボン、と音がして、二人は思わず顔を見合わせた。  翌朝、堀を攫ってみたが死体は上がらなかった。  本来ならお屋形様しか着席を許されない上座に太り肉の三毛猫が一匹、胴の下に折り曲げた脚を敷く格好で居眠り中である。  上座にいるべき当の本人は、下座で戦の携行食を改良中である。  左腕に抱えた擂鉢の中身を擂粉木すりこぎで黙々と混ぜる。大豆を擂り潰したものが両手で掬った量ぐらい入っている。味噌である。  さっきからどうも変だな、と鉢の中をいぶかる。隠し味程度に入れた鰹節の粉がやたらと鼻に対して存在を主張している。  擂粉木に纏わる味噌を指で掬って舐めてみる。塩と麹の素朴な味わいの中に、舌の肥えた者なら何か見つけるであろうという、至って想像通りの出来である。  再び混ぜる作業に没頭する。  やはり変だ。混ぜれば混ぜるほど鉢から臭いが強く漂って、御座所の中が鰹節の香で燻されている気がしてきた。  手団扇で顔の辺りの臭いを、飛ばないが飛ばしていると、いつの間にやら胡座の前に並んだ白、黒、橙の太り肉三匹に期待の目を献上されていた。上座を見ると三毛がいない。それぞれの色から察するにどうも三毛が分かれたものらしい。  信玄は生き生きとした表情の猫をめつけた。戦の命綱、玉の味噌を巡って信玄と太り肉の猫の戦いが今、始まる───。  とはならなかった。  熱烈な期待に気圧されてつい味噌のついた擂粉木の先を見衒みせびらかす。三匹の顔が群がり瞬く間に洗ってしまった。  差し出すしかない擂鉢をそっと床に置く。太り肉が押し合い圧し合いして顔を突っ込む修羅場に頬が緩む。甲斐の虎と恐れられる信玄も可愛い動物には弱いのである。  空になった器に三匹が一斉に丸尻を向ける。  何をするつもりかと興味を注ぐお屋形様の御前で、猫は胴を竦めて短い脚と尻尾をぴんと突っ張り、粗相の体勢に入った。  「味噌食って糞るとは、これはまた洒落た礼じゃのう」  所詮は畜生のすることよ、と不躾を意に介さず信玄はハハハ……と笑った。味噌も糞もと言うが、さすがに食ってやる気はしない。  器を囲う可愛い肛門から黄金色に輝く碁石状の塊が転がり落ちた。信玄は目を丸くした。黄金の糞は三つの肛門から止め処なく降り注いだ。  擂鉢を山盛りにした後、呆気に取られる信玄を残して、太り肉共は何食わぬ顔でトコトコ歩いて腰板障子を開けっ放しにしている勝手口から出て行った。  信玄はひとつ抓んで恐る恐る鼻を近づけた。糞ではない。ならばと今度は噛む。硬い。ふうむ、本物の碁石金の様だ。  (ほう。あやつら、打出の小槌か。さすれば持ち主の鬼が館の何処ぞにおるな)  勝手口から顔を覗かせると、回廊を正面の庫裏に続く方へ行ったかと思いきや、左手側の方に並んで歩く後ろ姿がまだ見える。寵童に持ってこさせた槍を手に、猫をけることにする。  左折れの突き当たりに消え入る姿を確かめてから室を出て、角の壁に張り付き、先を覗く。  三匹は回廊は途中で右へ折れて本主殿の西沿いを進んでいた。軽快な足取りだが如何せん短足なので遅い。直線をやっと半分ほど進んだところで信玄は一歩を踏み出した。  抜き足、差し足、忍び足……。ところがすぐに追いついてしまうはずの距離が一向に縮まらない。信玄の足取りは大股で早歩きになる。なのに少しずつ遠ざかっていく。自分だけちっとも前に進んでいない。周りの景観は全く動かないのに歩いている感覚はある。その景観も、庫裏や湯殿等の建屋はおろか土塀すら何処へ消えたのやら、芝を隔てて背の高い木々が乱立し、苔生こけむした岩とおびただしい茂みで地肌に緑が絶えない、鬱蒼とした森林に変わっている。板敷を歩きながら山道に迷い込んだ心持ちである。酷い認知不協和から目眩を起こし、石突いしづきを突いて体を支える。猫は角を曲がった。慌てて追う。  角を曲がると出会い頭に四郎と鉢合わせした。今日は人間の顔をしている。馬だったら鼻頭に顔面をぶつけていたところだ。  「今、太り肉の猫がそっちに行っただろう。ほれ、白と黒と橙の」  「父上の足元におりまする」  下を見ると、如何にも連れ添って来たという体で済まし顔の三毛が一匹、右隣に並んでいた。長い睫毛をしばたかせて見つめる四郎を前に、太り肉は信玄の足の周りを行ったり来たり、脛の下を頭で押したり、袴の裾を被ってみたりとにわか文字捩もじもじし始めた。  こやつ……尻尾の下をちらと確認……メスか。  猫の美的感覚でも四郎は乙女の恥じらいを召喚してしまう美男子らしい。  三毛は四郎に向かって愛嬌たっぷりにニャーと挨拶した。四郎は相好を崩して覗き込んだ。  「おお、よしよし。これはまた大した貫禄じゃな。どれ」  四郎は屈んで頭を撫で撫でしてから、抱っこしてやろうと脇の下を手挟んで前体を起こそうとした。そして二度力んで諦め立ち上がった。  「さすがに重うございますな」  「いくら太っとるとはいえ猫だぞ」  信玄は四郎に槍を預けて、後ろから胴を抱え上げようとしたが、不動如山うごかざることやまのごとし。建屋に何匹いるか知らんが、よく床が抜けないものだ。  太り肉がブルッとして、いきなり粗相の格好を見せたので、信玄は手招きで四郎を隣に呼んだ。  「ほれほれ、美丈夫に興奮して催しおる」  何故かはしゃぐお屋形様に嫌とも言い辛く、四郎は猫の後ろに回って信玄が指差す尻を何とも言えない表情で見た。  「よーく見ておれ、四郎。面白いものが出てくるぞ」  太り肉の尻が蠢蠢モゾモゾして、肛門からッと放たれた小さな何かが結構な勢いで四郎の袴に当たり、足の甲に落ち、板敷きを転がる。鉱質的な感じから糞でないことが瞬時に判別したので、四郎は丸い形をした鈍光にびかりする灰色の物体を抓み上げ、繁々と見、捏ねて触りを確かめる。  「それがしには玉薬に見えまする」  「わしにもそう見えるが……」  三匁もんめほどの鉄砲の玉と思しき塊を、不服そうに同意しながら憮然とした表情で見詰める。  「父上の仰る面白きものとは異なると?」  「うむ……。さっきは金が出た」  「鉛でも食うたのでしょう」  「まあこれはこれで貴重よ。しっかしどんだけるんじゃ」  二人は漫然とした目に猫の肛門を映した。飛飛飛飛飛ピピピピピ……と矢継ぎ早に玉を連射して四郎の袴を狙い撃ちしまくっている。全ての玉は水の様に板敷を庭へと流れ落ち、白砂の上を八方へ走る。辺りはすっかり節分の豆を打った様相になった。  「そなたを好いての大盤振る舞いであろう。ま、しき物は出さん打出の小槌じゃ、伊那へ連れ帰って奥で飼うてやれ」  「……。父上の仰せなれど、猫を室には出来」  「違うわ」  何処からともなく次から次へと飛来する雀が庭をあちこち跳ね歩いては玉を啄む。全ての雀は二人が見知っている色と違って、頭の先から爪の先から嘴の先まで真っ赤っ赤である。  「国中では雀も赤備えにございますか」  「雀まで戦に駆り出す気はないというに」  「お屋形様。あれは血の池で水浴びしたから、あんなに赤いのですよ」  信玄が振り返ると、白無地の千早と緋袴に、白の平元結で下げ髪を束ねた、巫女の装いをした小柄な女人が膝を曲げて会釈した。狐目には微笑が絶えず、色白の小顔に延べる口の深紅が際立つ。清くなまめかしく、世俗の人の不安をそよがせる不思議な雰囲気を纏っている。  「ほう。そなたが口寄せでもしたかな、千代」  「いいえ。生前の記憶を辿って来たかと。あの数え切れないほどの鉄砲の玉。懐かしい物なんでしょう」  「思い出のよすがを餌にしておると?玉薬をのう……」  貪る雀の群れを三人は感慨ありげに眺める。   「元は人だったのに、血の池に落ちて藻掻もがいているうちに雀の姿になってしまったのだとか」  「畜生道に堕ちた者達か。哀れなり」  「戦の絶えぬ世なれば、我等もまた」  「左様。身につまされる話よ」  「まあ。なんてふくよかで愛らしい猫なんでしょう」  父子揃って神妙に雀の大群に向かって片合掌するはたで、空気を張り飛ばす千代の感嘆。彼女は二人の間を割って現れた太り肉を造作無く抱き上げて、嬉しそうに顔を覗き込んだ。二人は目を見張って、声にこそ出さないが同じことを思った。  千代は太り肉を抱えたまま、来た時と同じ様に会釈をして軽やかに四郎の脇を通り抜けた。  本主殿、会所、主殿と連なる建屋の前を横切り回廊の角を曲がろうかという時、ふと足を止め振り返る。  「ところでお屋形様。隣にいらっしゃる殿方はどなたです?」  うん?と信玄は表情でき返した。  「まこと四郎様と瓜二つの、随分とい男にございますね」  可笑おかしみを含む弾んだ声を聞いて、脇目も振らず玉を探している赤い雀達がハッとして顔を上げ一斉に飛び立った。千代は行ってしまった。  「そういうことは先に言うもんじゃ」  と言うや否や、四郎は背後に一足飛びして間合いを作り、鋭く槍を繰り出してきた。  咄嗟に庭に飛び降り、次ぐ四郎と向き合う。誰何すいかする暇もなく、心臓への一刺しを狙うきっさきを右にかわし、続け様の払いをさっと飛び退いて避ける。間髪入れず二の手が突き出される瞬間に右脚で地を蹴って、大股で二歩前に踏み出しながら、伸び切った槍を左に躱し、逆輪の部分を右手に掴んで穂先を斜め下に逸らした。  「斯様かよう容易たやすく間合いを詰められよっては、まことの四郎の足元にも及ぶまいぞ」  柄に右手を素早く滑らせて左手に逆輪を握り締めると、体をぐっと右に捻り回転して四郎に背を見せる。ほとんど利き手だけの腕力で、既に四郎の体は槍ごと持ち上げられている。  「ぬおおおお!!」  雄叫びと共に有丈の力を込め、背負落せおいおとしの要領で槍を前に引き倒す。槍は四郎を鞦提ぶらさげて空に半弧を殴り描いた。白砂に体の背面をどっ!と叩きつけられ、四郎は落ちた。  「わしに喧嘩を売るには、ちと鍛錬が足りんのう」  格好つけて締めたが、若い頃の様に疲れを知らない体にあらず、右の肩首を伸ばして左手で揉み揉み、仰向けにぶっ倒れている四郎もどきを眺め遣りつつ、さて……何処の手の者か心当たりが多過ぎて、当人の口を割らせるしかないが、この手の手合いが失敗したら黙って死ぬのは鐚銭びたせんの相場なんぞより明確に決まっている。  (今川の刺客に仕立てて、駿河に攻め入る口実にでもしてやろうか……)  滲々じわじわと全身真っ黒の塊と化していく慮外者の使い途を思索する。変わった死に方をする奴だ。朽ちて頭の両側からたけのこが生えてきた。  と思ったら、象牙の様な形をした、どうやら角らしい。  「なんと。そちが鬼じゃったか」  異形の影は霧と立ち昇り、己の血にか赤く染まって風に流されて漂い、夕雲の棚曳きに変わっていく。不吉を感じたので気合を発して薙ぐと文字通り雲散霧消した。  太り肉の猫は千代が連れ去った三毛を最後に一匹も見なくなった。  舞良戸まいらどを大開口した北面から天の機嫌を真に受けて、室内の彩りがくらむ午後。屋根に延べつ幕なし物がぶつかる音に、居眠りする気も酒を呑む気も削がれてしまう。飾り矢を並べた矢衝立やついたての前に茣蓙ござを敷いた上座を尻目に、信玄はいつしか胡座に頬杖の身裁無しだらない格好で、瞼を閉じたり開いたりして独り物思いに耽っている。  しころをつけた象牙色の焙烙頭巾ほうろくずきんを被った男が慎ましい溜息をついた。地にあしらわれた金糸の霊芝雲文れいしぐももんが黒柿の羽織と揃いである。小袖とうちぎと袴の地は同じ葡萄茶えびちゃで、袿は透かしに花小紋、袴は獅子狩連珠文ししかりれんじゅもんに唐草。まるで能装束の様な派手さだが、地の色が渋い所為で重みがあり、また男の顔立ちから漂う聡明さも涼やかで柔らかい。  全体的に僧と茶人を雑まじえた印象の───穴山信君は降り注ぐ黒い塊を信玄の頭越しに眺めて感想を口にした。  「ドンッしよドンッドンッドンドンすな」  大きななまずが屋根を叩きつける音が天井を貫通して、さっきから誰が何を喋っても全然聞こえない。向かい合って座す山県昌景も外を眺めて溜息をつく。こちらは信君と対照的で、小袖も袴も肩衣も無地の葡萄茶で統一し、狐の毛皮を肩衣の襟と尻当に使っている。着物も面構えも赤備えの猛者共を率いるに相応しい武骨さである。  三尺はあろう立派な鯰を、捕って酒の肴にしてやろうとは誰も思わない。笛吹川で獲れる鯰は美味いのに、天から降る鯰は肉の代わりに泥が詰まって食えたものではない。仕方ないので三人共黙りこくって鯰が通り過ぎるのを待っている。地表は見渡す限り鯰に埋め尽くされ、同じ方向目指して体をくねらせ這摺る鈍色にびいろの川である。故郷へ帰って行くのであろう。  「ようやく小振りになってきおったか」  音がトントンと小さくなった天井を見上げて昌景が呟いた。腰を上げて上座の手前から外を確かめると鯰は三寸程になっていた。  やっと鰻が上がり、垂れ込めていた灰色の雲の隙間から一条の光が差し延べられる。無数の鰻はひとつに固まり、庭の大木より遥かに太く長く、全身に鱗を生やし龍となって光の道を昇っていった。  幸先のいいことよ。昌景は柏手を二度打って合掌し一礼した。  再び席に戻ると、待っていた様に信君が話を切り出した。  「ではお屋形様、駿河の件は」  「ああ。近日中に追って沙汰する」  二人は信玄に向かって神妙に頭を下げた。顔を上げて信君が続ける。  「……とあらば、北条が黙ってはおりますまいが、そちらの対策はいかが致しましょう」   今川氏真の正室は相模の守護北条氏の出で先代氏康の娘、信玄が娘を嫁がせている現当主氏政の妹に当たる。信君の発言は、氏真の要請により駿河に援軍を送ってくるであろう氏康・氏政父子の動向は元より、北条家中で針の筵に巻かれる信玄の娘を慮ってのことでもある。慎重に顔色を伺っている様に感じられた。  だから穴山は武田に成り代われないのだ、と信玄は思った。信君は優しい。その常識人たる、小物ならではの賢明さを抱えて、いつまで何処まで武田の為業に随いて来られるであろう。羨ましくはないが微笑ましい気分で信君の心を聞く信玄である。  欲しいものを手に入れる為に捨てられる義理など惜しむべきではない。所詮、縁組など抑止力にならないことは自身が最もよく知っている。  今川義元が桶狭間で尾張の織田信長に討たれて以降、遠江と三河での求心力を急激に失っていった駿河に力添えしてやる義理が信玄にはあったはずである。  そう言われたことを思い出した。信玄の同母姉は先代義元の正室で現当主氏真の母に当たる。氏真は信玄の甥である。次に産まれた娘、すなわち氏真の妹は××の正室で……。  ところが氏真は信玄に泣きついてこなかった。他国に侵略されての紛争でもないのにたすけを乞うなど、駿遠参の統治者として鼎の軽重を問われるだけではない。甲斐の兵力を借りれば鎮圧に成功するかもしれないが、支配領国を一切れ差し出す覚悟が要る。あの信玄を相手にそれは自ずから蚕食の発端を作る愚行である。氏真も馬鹿ではないし、信玄とて頼まれもしないのに援軍を送るわけにはいかない。丁重にお断りされて面子を潰すだけである。それを助けろ助けろと××は口煩く訴えるのである。  氏真は義元の存命中に家督こそ譲られてはいたものの、信玄にとって駿河殿といえば義元を指す。義元あっての駿河今川と殆ど誰もが思っている。果たせるかな、父の弔い合戦に手が回らないほど遠江と三河は荒れた。信玄は袖手傍観の振りをして兵を差し向ける機会をうかがっていた。同盟の誼を結んだ相手は義元であって氏真ではない。その時に力が拮抗しているか、脅威になるか、さもなくば利用価値があるか。氏真はどれにも当て嵌まらない。だから見限った。  ××は不義理と断じてかたくに従おうとしなかった。信玄は哀れな氏真を腹立たしく思った。家中は忩劇そうげきの迸とばっちりを食って、信玄に深い喪失感と大きな損失をもたらした。  駿遠参すんえんさんを獲らねば割に合わない……。  ───信玄の背後から板敷を拳で二度軽快に叩く音がした。三人が一斉に見遣る。  戸端口とばぐちの側で、黒い鬼神面に山伏の格好をした者が片膝で拝跪して、上がりかまちに三つ折りの紙片を置き、小走りで去っていった。  信玄は紙片が置かれた所まで行って拾い上げ、その場で素早く目を通した。間諜が紙片に書いて寄越した報せは吉か凶か。  「小田原に太り肉の猫が大挙して押しかけておるらしい」  中身を告げる信玄の愉快そうな調子が、聞くなり目を丸くした信君と昌景にも浸透していき、二人は愛らしい顔をした多彩な太り肉の群団が砂塵を上げて城門を突破する光景を想像して笑いを噛んだ。  「これはこれは。猫飯ねこまんまの匂いに吊られましたかな」  「氏康と氏政の御相伴に預かりにか。道理で太るわけよ」  北条父子は躑躅ヶ崎より遥かに広い家に住んでいながら汁掛け飯の粗食に甘んじているという。袈裟にも染無そめなしの麻を愛用している信玄にはどうも嫌いになれない人達である。  「まあ、ここはひとつ猫の手も借りておこうではないか」  「猫が援軍を足止めしてくれるとは、まさに好機。天も我等に味方しておりますな」  「兵を向けたところで兵糧にも事欠くであろうよ」  「北条にとっても都合が良いのではござらぬか?凋落の一途を辿る者に肩入れして、虎に喉笛を噛み切られてしまうよりは」  ハッハッハ……。噛み切れなかった分の笑い声がどっと噴き出して渦を巻き、御前の角盆に載る漆塗りの銚子の口に吸い込まれる。ハッハッハ……。ハッハッハ……。昌景と信君の哄笑が止まらない。信玄の耳には不思議と届かない。気が触れた様に笑い続ける二人を余所よそに、白磁の平盃に濁酒を鼠尾そびと注いだら、水である。しかし呑んだら酒である。味が円やかで白いものより美味い。決して酒に弱いわけではないのに、一盃で頭が時候外れの朧月夜、酔い心地、好い心地。鮒鮎鮒鮎鮒鮎鮒鮎。鮒鮎鯰鮎鮒鮎鯰鯰。  信玄はいつしか胡座に頬杖の身裁無い格好で、瞼を閉じたり開いたりして独り物思いに耽っている。  目の前には人の首、と一瞬見紛う大きさの鯰の首が二つ、向かい合わせに置かれて、近隣の無彩絵図を信玄と囲んでいる。  自身の領国を中心に据えて、地名、城名、人名等が記されている場所に、飾り矢が突き立てられている。  気分を台無しにするものを見せつけられて眉を顰める。  と、韮崎の地に目が留まった。甲斐源氏は新羅三郎義光から数えて四代目、甲斐武田氏の祖となる太郎信義が一族の氏神と定めた武田八幡宮が鎮座する。  帯に挿している鎮折しずめおりの白扇を手に取る。  「ここは?」  扇の天で指す『新府』の二文字。  「…………」  「…………」  大鯰の左の頭は静かに目を閉じ、右の頭はかっと目を開いた。  顔が掌を滑り、上体が落っこちて發と我に返る。  昌景と信君はいなくなっていた。なんだか胸が靄々モヤモヤするので気分直しに手酌したら泥砂が出てきた。蓋を開けてみると大きな目玉と視線がち合ったので喫驚した。  背後から猫の鳴く声がした。振り返ると、矢衝立が空になっている。なんだか寂しい上座の風景に、何かを思い出しそうで思い出せなくてまた靄々する。  縁側まで出る。茂み一帯を眺め回して声の主を探す。下からトコトコ歩いて出てきたらしい花菱柄の太り肉が視界に入った。  「おお。そちは小田原へは行かなんだか」  太り肉は足を止め、信玄を振り仰いでニャーと鳴いた。何故か信玄には別れの挨拶に聞こえた。遠退いていく後ろ姿が、二度戻って来ることはあるまいと思った。  (そうか。そなたは帰るのだな。あんなに仲睦まじかったものなあ。そしてわしはまた、そなたを死なせてしまうのか)  靄が覆い隠していた何かが晴れた日の山嶺の様に明瞭に現れた。猫を追い掛ける様に足元から伸びる影が、いつぞや殺した異形を象っている。  鬼はこの信玄であったか。  ずっと昔から引き摺ってきた黒い塊を眺めて真実をただ知る。顧みない様に努めてきた記憶を幾つも沈めて冥く澱んだ底無し沼では感傷も息が出来ない。  いつか聞いたあの猫の声。  そうじゃ。あれは義信の声であったわ。
20240824