四郎は顔を背けて固く目を閉じ、前を見ることを頑として拒んでいた。  まだか。早く済ませ。  調伏ちょうぶくの祈祷を反芻はんすうしては(これも諏訪大明神がお与えになった試練ぞ)と言い聞かせているうちに(わしは一体何をしておるのじゃ)と首を傾げたくなってきた。  正直言って、後悔している。  四郎は供二人を連れて恵路伊村(仮名)を訪れた。  日和長閑ひよりのどかな田舎道を馬の背に揺られ、遭遇した村人から場所を教わったくだんの家を目指す。村の北端にあるという。  道形みちなりに進んでいくと、寂しくて開放的な土地に、二枚のはたけを隔てて茅屋ぼうおくポツンと建っているのが見えた。  「おぬしらは残れ。わしが直に出向く」  畠の前で馬を降りる。従者に刀を手渡すと、挟まれた畦道あぜみちを木戸の前まで歩く。  「頼もう。武田四郎勝頼が参った。助兵衛(仮名)はおるか」  返事はない。案内あないもせず来たのだから留守もあり得たが、戦で負った深傷ふかでが癒えず、床から上がれないこともあり得る。  失礼致す、と声掛けして戸を開けてみる。  いた。  薄暗い家屋の奥でこちらに猫背を向けて座っている総髪の男子。誰じゃ、と打切棒ぶっきらぼうに、首だけを億劫おっくうそうに回す。  しかし戸口に立つ人物を認めた途端、彼は手に持っていた物を放り捨て、目を丸くして飛び上がらんばかりに驚いた。  「こ、これは、なんと、し、四郎様っ!!」  腰が抜けたでもあるまいに周章あたふたと床を這ってくる彼を手で制し、今度は待てを命じられた犬の如く動きを止めたその人相を確かめる。髭の蓄えはなく、太い筆で思い切って引いた様な眉の下にやや大振りの目鼻口、気が強く利発そうな顔はよく覚えている。間違いない。助兵衛である。  「し、四郎様には、このような荒屋あばらやにお運び頂きまして、まことに恐悦至極に存じます」  背筋を張って正座し、うやうやしく平伏する。まるで仕え始めの小姓の初々しさである。  「前触れも寄越さず訪れたこと、許せ。あれからそなたの様子が気ががりでのう。いずれ見舞いにと思うておったのじゃ。少しは動けるようになったか」  「は、はい。も、勿体なきお言葉、かたじけのうございます。お陰様で、はい、傷はもうすっかり、はい、痛くも何ともありません」  「そうか。それは重畳。だがこれは置いていく。あっても邪魔にはなるまい」  四郎はたもとから軟膏が入った大きなはまぐりの殻を取り出し、助兵衛の視線の先にそれを置いた。  「あ、ありがたき幸せ。それがしのような卑賤の者に、お手ずからのお心遣い、誠に痛み入ります。大切にいたします」  「おぬしにはお屋形様より恩賞を授けよとの仰せじゃ。今日はそれを届けに参った」  「お屋形様から!そっ、とっとんでもございませぬ!受っ」  「少し上がらせて貰おう。構わぬか」  「あっ……も、申し訳ございませぬ、ちっとも気が利きませんで……!むさ苦しいところではございますが、どうぞお上がりくだされ。ささ、どうぞ」  「家の者はおらんのか」  背を向けて床に腰掛け草鞋わらじの紐を解いている間にも雑談は続く。  「は、はい、二親は病で、兄二人は戦で死にました。それがしは男鰥おとこやもめで、子もおりません」  助兵衛は茣蓙ござを奥に置き、手前で正座して待った。  「左様であったか……」  上がって何処とはいわず無意識に視線を遣る。一目で足りるほど狭く、質素な暮らしぶりが窺えた。藁床も見当たらないのに、隅に縄で編んだ袋と巻縄とが綺麗にうずたかく積んである。売って生計の足しにするのだろうか。傍に転がるいかけの縄は、四郎が来るまで触っていたらしい。手先が器用なのだろう。  胡座あぐらで茣蓙に乗り、目線を下げたままの助兵衛を改めて見る。太腿に乗る手が緊張の余り着物の裾を握っている。  謙虚で勇敢な中身に相応しくない身形みなりだと思った。元は四郎が着ている小袖の形をしていたであろう一張羅には袖がなく、太い腕を肩から曝け出している。丈は膝に届かず、胡座だと絶対領域は守れまい。着物の布面積はそのまま貧富を表す。布は高価で、おいそれと買えない者は裾を裁って継接つぎはぎするから段々と丈が短くなっていくのである。  甲斐では武家や豪農の子弟も襤褸ボロの装いに馴染みがある。四郎もその一人だった。鍛錬場に集められ、籠りきりで乱取稽古の日を過ごすと、何もかも助兵衛が着物の如く汚れる。しかし誰も裾に生活苦は見えない。  麻の巾着袋を懐から取り出して助兵衛との間に置く。中には碁石金がぎっしり詰まっている。  助兵衛は床に額を置いた。頭の前で指先をぴんと伸ばして揃える両手が震えている。  「畏れながら、ご厚情はありがたく……しかし、受け取れませぬ。お、お許しを」  まさか断られるとは思ってもみなかった、という感想が、平素は寡黙な四郎の表情に出ている。  「そなたは命懸けでわしを救ってくれた。助兵衛がおらねば四郎はこうして生きてはおらぬ、父上もそう思し召しの由、格別にと振る舞われる褒美ぞ。どうか受け取って貰いたい」  「そ……それがしには……四郎様のお役に立てた誉れが、いちばんの褒美なのでございます……」  口にこそしないが何故だと問い詰める勢いに釈明の声も萎縮してしまう。  「ならばわしの役に立つ機会を存分に与えよう。おぬしをわしの方で召し抱える。どうじゃ」  その言葉は四郎が思う以上に衝撃を与えたらしく、頭が弾かれた様に起きた。  「そ、そんな!助兵衛めのごとき下卑たる輩をお取り立てになってはいけません!それがし、四郎様の穢れになりとうはございませぬ」  「何を申すか。お屋形様は弾正だんじょう殿をお取り立てになった。百姓の身から城ひとつ任されるまで立派になられた御仁じゃ。おぬしもかの御仁に倣い、わしをたすけよ」  「お、お言葉だけで……お言葉だけで嬉しゅうございます。それがしは、それがしだけは、なりませぬ、なりませぬ四郎様……ううう」  土下座姿が徐々に縮こまっていき、遂には震えながらうずくまってしまった。  泣くほどに嬉しいなら仕えてくれても良さそうなものだが、という不服はおくびにも出さず、四郎は声音を和らげた。  「相分かった。なれど一生の恩人に何も報いぬではわしの気が済まぬ。……そうじゃな。一月の後、村へ視察に参る。その時までに、ささやかでもよい、何か望みを考えておいてはくれぬか」  「……ひっ、うっ……うう……」  呻きながら何とかこくんと頷く。  「うむ。邪魔をした。では今日のところはひとまず下がろう。もう泣くでない。身をいとえよ」  無用となった褒賞を提げて席を立つ。残念だが致し方ない。 「し、四郎様、お待ちを!」  草鞋を履こうと板縁で身を屈めようとした時だった。  「早くも聞き入れてくれたか。何なりと申すがよい」  体ごと振り返ると、助兵衛は突っ伏した姿勢のまま左手を上げてこちらを制しながら、  「お慈悲でございます。そ、そのままで、そのままどうか一歩たりとも動かないでくだされ。誓って御身に触れたりなど致しませぬ。近くで麗しいお姿を拝し奉るだけでよいのです。嗚呼やはりこの哀れな助兵衛めの望みを叶えられる御方はこの世にただお一人、四郎様しかおりませぬ」  と切なく訴え、さっと上半身を起こした。  とりあえず頷いた四郎の見ている前で、股座に入れていた右手が、暗い蚯蚓みみず色をした大筒を引っ張り出す。  巾着袋が熟した銀杏の様に右手の枝から落ちた。  「…………。おぬし、何を、」  裾の割れ目からいきなり生えた巨大な息子は、根を手に支えられ四郎に向かってぐったりとお辞儀している。  「ハァ、ハァ、お、お許しを、四郎様、後生でございます、御前で見抜きする無礼、お許しを、何卒なにとぞ、何卒」  「……みぬ、……き……。……とは……」  何ぞ。  「これよりそれがしが、ハァハァ、四郎様の、ハァハァ、ご覧に入れることでございます」  地獄の寸劇の始まりであった。  こんな褒美があってたまるか、要らぬと言うなら素直に聞いておればよかった、見抜きのなんぞ知りたくもなかった。  首を長くして、捻じ曲げて、今か今かと終わりの時を待つ間、奥ゆかしい桃息吐息のサイレント呪詛を浴びせる静寂しじまが辛い。  (本当に、わしを見ながら、己を慰めておるのか……?)  恐る恐る薄目を開けて足下を見てみる。  しっかり目が合った。かっみはる血走りまなこに射られ、瞬間、呼吸の塊が逆流してヒッ、と喉が掠れる。  (帰りたい。いや、恩に報いるべし)  切に願う都度、よぎる「恩人」の二文字を自身の形代に彫るが如く刻む。何なりと申すがよいとのたまった手前、この変態めが!と張り飛ばしもしかねた。  自ら綯った縄で裸を自ら亀甲縛りに結い上げて土壺にダイブする、みたいな芸術点の高い恥辱を塗り込めた仁王立ちが、助兵衛には名高い仏師の彫像より尊い。後悔と屈辱を二つ拳に握り締め、長い睫毛を重ねて青褪めた化粧を施す横顔。誇り高く律儀な御方は耐える姿も美しい。自身の存在が造り上げた至高の逸材を目の当たりにして助兵衛は神となる。  手を伸ばせば届く位置にいるのに敢えて触れないシコシコタイム。触れずに穢す神の御業で推しの純潔を守りたい。でも一度でいいからお慕いする御方に触れてみたい、嗚呼、四郎様、四郎様。  「……イッ……イゥゥッ……」  (イ……イくのか……?)  感極まる喘ぎに四郎の胸が期待で高鳴る。  「ァㇷァ……」  (くっ……!イかんか……)  快楽の詰まりが逃げていった溜息に肩透かしを食って思わず口の奥で歯噛みする。  「ァッ、イッ……ィッ……!」  一物を錐揉みして両手を塞ぎ、触りたくても触れない、募るもどかしさが癖になる、嗚呼、四郎様、四郎様。  (いクのか?イクのか!?)  双六の上がり目を待つ者の緊張感に肩を掴まれる。今度こそ。今度こそだ。  「ㇷゥ……」  (まだイかんのか!)  寄せては返すイクイク詐欺の波に呑まれた四郎の奥歯は立て続けに演害を被った。この調子では地獄から解放される前に歯が失くなる。  「ヒィっ……!ァァ゙ッ」  もう騙されまいぞ。御旗楯無に誓いつつ薄目で状況を確認すると、ガン見で涎を垂らし高速手コキに没頭中の物の怪に遭遇する罰を喰らう。だからあれほど見るなと。  瞼の裏に貼りついてしまった、死に物狂いの表情と手元はまさに死兵のそれであった。助兵衛は神ではなくなった。  (気持ちいい……気持ちいい……。嗚呼、四郎様、それがしの一物をご覧あれ。こんなにも種が溢れておりますぞ)  実は二度取った嫁は石女うまずめ扱いして実家さとへ返した。勃たなかったからだ。いつしか真相が噂され、人は彼を種無の助兵衛と呼んでさげずんだ。  ある日のこと、山へ柴刈りに出かけた助兵衛は川で行水する美しい若者を目撃した。  栄養不足知らずの絞られた肉体。槍傷で綾なす日焼けした肌。束ねる黒髪は腰に届こうかという長さで真っ直ぐに垂れて艶々していて、ふんどしねじりが締まりの良さそうなケツに食い込んでいた。  もっと近くで見たかったが、お供が二人、川縁に控えていた。気配を感づかれ、ご尊顔を拝さないまま慌てて逃げ帰った。  木陰からそっと覗き見した後ろ姿をお持ち帰りした夜、若者はケツに縄(メイドイン助兵衛)を食い込ませて夢に現れた。  藁布団の上に正座してその後ろ姿を見上げる。時々振り向いてくれるのに、甲斐の分国法にでも定められているのか、顔にぼかしと黒修正線が何本も入る徹底ぶりはまるで陰部以上の扱いで、現実性リアリティに欠けていた。  起きたら勃っていた。生まれて初めて射精の喜びを味わう扱き深い朝を迎えた。助兵衛は種無ではなかったぞー!村中叫んで回りたいくらいだった。  しかし唯一の欠点があった。どうしてもあの若者でなければ勃たない。  味を占めた脳の再現性によって、若者は「ケツに縄を奉納すると見抜きさせてくれる謎の神様」となり、譲れない「ピンクの乳首」が装備された。顔を知らない事実は「顔を見た者に犯す権利を与える分国法のせいで被り物をなさっている」だけならまだしも「慕ってくれる助兵衛に無垢を授けたいと告白するも穢すわけには参らぬと涙ながらの侠気おとこぎで従わせて抜き倒す」という好都合フルスロットルの設定で盛られ、種の量産を助長した。家屋の隅に積まれる物の数は増えていった。  そして遂に戦場にて若者の正体を知る。拝し奉ったご尊顔は想像を飛び越えて、縄袋を被せるのが勿体ない美貌であった。四郎が指揮する隊に加えられ、天にも昇る気持ちで、突き合い斬り合い殴り合いしている最中ずっと勃起して(四郎様の為なら死ねる)と誓い通し、本尊をストーキングしていた。  今、助兵衛はあの瞬間を思い出す。四郎を突き飛ばし、彼が喰らうはずだった一突きを脇腹に受けた。精の噴出。なんという解放感であろう!  決して槍を離すまいと固く握り締めている間、陰茎は痙攣しっ放し、絶頂の波に見舞われた。遂に精魂尽き果て地に倒れた時、助兵衛は血と精液の袴を穿いて、下賤と種無を覆したのだった。村の者共ご覧じろハハハハハ……。  「しっかり致せ、助兵衛!」  遠くで四郎の声が聞こえる。ご無事であったか。ようござった。  逝きかけシコシコのそれがしを前にシコシコ血の気を失われたご尊顔を背けシコシコ迫りくる哀しみに耐えシコシコ打ち震える仁王立ちシコシコのお姿シコシコしかシコシコとこの目にシコシコ焼きつけてシコシコ助兵衛はシコシコ今シコシコ逝シコシコきますぞ!  「あッ嗚呼ァハァ四郎様ァハァハァ逝くァハァ逝くゥ!ィ逝ぐゥ゙ううぅ───!!」  シコシコシコシコシコシコシコシコ!!  建て付けの悪い音を鳴らして木戸が開いた。  供の二人は出てきた四郎の異様に気がついた。馬を放り出して慌てて駆け寄る。  顔面蒼白で、上の空の足は草鞋の紐も結んでいない。一人がひざまずいて紐を結う間に、一人が家屋の中に飛び込んだ。  「四郎様。助兵衛と申す者が何か……?」  足元を整え終えた従者が遠慮がちに訊く。何と答えればいいのか。  巾着袋を抱えてもう一人が戻ってきた。  「中には誰もおりません。如何なされたのです」  啞然として茅屋を見つめる。  「いや……。おらぬなら結構。帰るぞ」  馬に跨り、元来た道をゆく。四郎は一言も口を利かない。助兵衛とやらに会いに来たが留守だっただけだ。供の二人には主が疲れた顔をしている理由が皆目わからない。  少し先で、山菜を積んだ籠を脇に抱えた老婆が、道端に寄って頭を下げた。  四郎は前まで来ると馬を降りた。  「これは若様。僻村にようこそお出でくださいました。この婆に何か……」  「ものを尋ねたい。この村に助兵衛という者がおるはずじゃが、如何しておる」  ややせっつき気味に訊かれて、老婆は少し焦った。  「は、はあ。助兵衛は先日の戦から帰ってくる途中でうなりました。傷の具合が悪かったと伺っております。……。」  「なんと。助兵衛なる者、既に亡うなっておったと」  信玄は対面の相手を不動明王から四郎に替えた。  俯きがちの顔と、手前の巾着袋を交互に見る。  「は。恩賞を預かる前に確かめておくべきでございました。お手を煩わせ、申し訳ございませぬ」  深く頭を垂れる。体験した一部始終を報告する気には到底なれなかった。助兵衛という名の男が、戦での負傷が原因で死んだ。その事実があるだけだ。碁石金が手元に戻ってきた説明には事足りた。  「よい。おらぬ者は致し方ない。そなたもご苦労であった」  四郎は更に腰を折った。報告は終わった。  立ち上がりながら碁石金の袋を眺めた。  老婆の言葉を思い出した。  「なんでも最期は譫言うわごとで若様の御名をお呼びしておったたそうで……。あれにとってはお役に立てたことがせめてもの救いでしたなあ」  心の中で成仏を祈り、御前を後にする。  「待て。四郎よ」  廊下に踏み出そうとする直前、鞭打たれる様な緊張が背に走った。騙してはいないが黙っていることがある。父上の勘は鋭い。  「は。如何なさいましたか」  「そなた、わしに何か隠し事はあるまいな」と念押しされる覚悟で振り返った。言われたら正直に話せば良いだけだ。信じて貰えるかは別問題だ。嘘さえつかなければ……。  「そのまま、そのままでおれ。そこから一歩たりとも動くでない」  左手で制された四郎に今度は顔面を鞭打たれる様な衝撃が走った。  (なん……じゃと)  赫と瞠る血走り眼、腰紐を解いた袴の中に突っ込んでいる右手。  股座がごそごそと動き、やがて……。  「……。父、……上……」  いや違う、これは、何たること、此奴こやつまさか。  四郎の一挙一動を見逃すまいと熱くたぎる狂気。  床が抜ける様な感覚が足元を襲う。  四郎は見た。そこに確かに見えたのだ。  (ま、まだ成仏しておらんかったのか!)  地獄の寸劇の始まりであった。
20241124