「お屋形様。そろそろ先代様、いやご隠居様の三回忌を迎えますな」  先代信玄公は「三年の間、我が死を秘するべし」と遺言して三河を行軍中に病没した。四郎勝頼に代替わりした後、しばらくは書状に信玄の花押を用いるなどご隠居様として存命を装っていたが、到底隠しおおせるものではない。既に四隣には知れ渡っていた。しかしながら密葬されてから未だに公的な葬儀は控え、慎ましやかな法事を行うに留めている。  穴山信君のぶただは同情と幾許いくばくかの気懸かりを以て、神妙に頷き返した若い当主の心境を察した。遠江と三河の占領まであと一歩というところまできている。先代を凌ぐ偉業を打ち立てねばと、戦上手が煽る自信で焦りを踏みにじろうとしておらねばよいのだが。  何をやっても先代と比べられ、及ばぬものと見做されてきた鬱屈などなかったものの様な顔をしているが……。  穴山家は武田家とは重婚の間柄で、御一門衆のうちでも血筋が近い。信玄の姉を母、信玄の娘を妻に持つ信君にとって、四歳下の勝頼は従弟でも義弟でもある。格別の身贔屓を望むではないにせよ、相談相手には申し分ない立場にありながら、信君は家督を継いだ後の勝頼から心理的に距離を置かれていた。  好き嫌いの問題ではない。自分の方からも遠慮がある。何せ相手はお屋形様だ。従うことに異存はない。しかし先代の時は気に留めもしなかった結び目も、新しい屋形とでは全く同じ形にはならない。  信玄は情緒とはかりごとに富み、腹の底が見えない恐ろしい人だったが、勝頼は気分を出さず何を考えているのか分からない人で、軍議を和ませる敵方への皮肉めいた軽口を無駄口にしてしまう様な、信玄とは異なる類いの緊張感をいつも御前に漂わせていた。屋形とはくあるべし、という何の漢籍にか記されていそうな体裁を整えてゆるがせにしないとでもいおうか……。立場以外の結びつきを受け容れないことを自身に課している様に信君には思われてならなかった。信玄の様に貫禄に物言わせるには若過ぎるから致し方ないが、やや背伸びしている感は否めない。だからこそお支えしなければとの気負いが絡まり、人を寄せ付けない勝頼と、もつれた片結びを拵こしらえてしまうのであろう。……切れも解けもしそうにないのが救いではあったが。  信玄が逝去した翌年の正月、勝頼は東美濃に出兵した。屋形としての初陣である。  この時までに織田信長はたもとを分かった将軍足利義昭を京から追い払って世から幕府を葬り、次いで敵対する越前の朝倉義景と北近江の浅井長政を討って脅威を排除した。徳川家康は信玄最後の行軍で奪われた遠江の失地回復を果たさんと躍起になっている。信玄が駆逐するはずだった黒黴くろかびが彼の死を機に甲斐の近傍に蔓延はびこり始めていた。  信玄と信長が手切れとなってから、武田領だった東美濃は秋山伯耆守虎繁あきやまほうきのかみとらしげが詰める岩村城だけを保持して織田領にされていた。その橋頭堡きょうとうほに到着した勝頼は十日と経たないうちに十八の城砦じょうさいを陥れ、越後の上杉謙信が上野こうずけに出兵したという報に接すると陣を引き払った。織田方は後詰が間に合わず、奪回を諦めた信長は、最前線となった神篦こうの城と小里おり城を固める様に命じて撤退した。  信君は勝頼が帰ってきてからすぐ躑躅ヶ崎館つつじがさきやかたに呼び出された。  「お屋形様。まずは此度こたびの堂々たる勝ち戦、まこと祝着至極に存じまする。信玄公もさぞお喜びになられましょう」  挨拶代わりに当たり障りのない祝辞を述べると勝頼は黙って頷いた。大して響いていない様子で、言われた当人よりむしろ言った本人の方が嬉しそうである。  「次は遠江じゃ。わしも出陣するゆえ、そのつもりでおれ」  「は……。我等だけでは仕置がはかどらぬゆえ、お屋形様のお手を煩わせる仕儀と相成りましたこと、まことに面目次第もございませぬ」  「よい。わしは相手方の後詰が来た時の備えよ。高天神の城攻めは、穴山、おぬしに采配を任せる」  「承知つかまつりました。お屋形様御自おんみずからご出馬なされるとあらば我等の威勢も増すというもの。心強うございまする」  世辞のつもりはない。勝頼の戦勝は信玄亡き後も武田の武威が未だ衰えていないことを国衆に知らしめる絶大な効果があった。信玄の死でただでさえ動揺しているのに、代替わりの初陣で早速負けでもしたら武田を見限る国衆の洪水で甲斐は分国から決壊したであろう。かつての駿河がそうであった様に。  戦場において新しい屋形の器量が試されていた。故に勝頼は武田の猛勇を象徴する山県昌景の赤備えを駿河の江尻城から招集し、三万の大軍勢を引き連れ必勝を期して戦に臨んだ。  「次こそは必ず、…………。」  屋形が途中で仕舞込んだ独り言を、本人が話題にする気はなくとも拾った以上は放って置かないのが周りの習性である。若武者振りが抜けない勝頼の気質をおもんみるに、自身でも存分に槍を振るい武功を立てたかったのであろうと信君は一人合点した。勝頼は諏訪の姓を名乗っていた御一門衆の頃から死にたがりの戦が好きらしく、嫡子扱いになっても全然自重しないから信玄に怒られたこともある。しかしながら勝頼を尚武の家風に晒して過酷な鍛錬を徹底させたのは他ならぬ信玄だったので、その辺の言い聞かせは勝頼の世話役達に任せて自身はくどく言わなかった。  「東美濃での戦振り、破竹の勢いであったと伺っておりますが、お屋形様には物足りぬ戦でございましたかな」  返事をするべきか迷ったのだろうか、少し間を置いてから、端正な顔にやや不貞腐れの翳りが差した。  「明知城が落ちるに早過ぎた。織田信長……悪運強き大将よ。おかげで首を取り損ねたわ」  「なんと」  舌打ちが聞こえそうな勇み足の悔恨に信君は面食らったが、勝頼の気性をよく知る彼の義務感は矢の様な速さで奮い立った。  「おそれながら、此度のご出征の狙いはあくまでも東美濃の奪還。奥三河からも徳川を脅かし、遠江にてらちが明かぬ我が勢の一助を担わんと謀るが本意にございますれば、お屋形様にはご満足のお働きとお思いになられますよう。信玄公は兵を損なってまで、目論見に過ぎたる戦果を望まれはなさいませんでしたぞ」  ……と説教してはたと気がつく。  「重ねての御自らご出馬とはまさか……」  「大将首二つ取りに行くのよ」  「お屋形様!」  荒げた声には不承の意が思い切り詰め込まれていた。  信君はうっすら目眩めまいがする気持ちで若い屋形の肝据わった顔を見つめた。相手方の後詰を迎え入れて戦をしたがる物狂いがこの世の何処におろうか。いや、いる。目の前に。しかも上座に。  「お屋形様は我が勢の後備えとして徳川からの後詰を牽制するお役目にて、その間に何としても高天神を落としてしまわねばなりませぬ。もし織田の後詰が到着すれば徳川は動き、城攻めは困難を極めます。さすれば昨年挫けた長篠、ひいては家康の籠る浜松の城攻めももはやかないますまい」  「そんなことは言われずとも心得ておる」  「大望を果たすにも順序がございます。徳川領を全て奪い取らずして織田との戦が敵いましょうや。何卒なにとぞ、今はの地にしかと武田の根を張ることのみをお考えくだされ」  二兎を追う者は一兎をも得ず、と言いたいだけがつい講釈を垂れてしまったが間違いを口にしたつもりはない。信玄公ならどうおいさめするであろう。無意識に勝頼の背後に焦点が移る。白い犛牛ヤクの毛と諏訪明神旗の字を書いた札をあしらった獅噛しかみの兜に紅い法衣を纏う鎧。甲斐の守り神となった先代の抜け殻が上座の奥に居座っている。  「穴山よ。わしは千載一遇の好機を逃した。そんな気がしてならん」  勝頼は毅然な態度を少しも損なわず懸念を口にした。信君は逸れていた気をつかみ直したが、本音を聞かされたことにいささか虚を突かれた。  「信長は常に我等の行く先に後詰を寄越してくる。明知城、高天神、次は長篠か?岡崎か?幾度も同じことを繰り返せば領国は疲弊し、わしが動かせる物の数は削られていく。まだ三万都合できるうちに討たねばと思うたまでよ。……信長の勢いがこの上増長する前にな」  信玄率いる武田勢が三方ヶ原で徳川勢を蹴散らし遠江と三河を席巻した陰には、戦費を賄うのに苦心した経緯がある。出征前に父が遺した心憂い吐露が、勝頼には聞いた時より重く思い起こされた。  「この山々に囲まれた国に何故わしは生まれついたのかと、よう恨んだ。もっと田畑があれば、海が、みなとがあれば、もっと富があれば、わしは瞬く間に世を平らかにしたものを。四郎。それをそなたに残す」……。つまり勝頼が継いだ甲斐はそういう国なのだった。  「さればこそ他国を切り取り、従える国衆を増やすことに如何いかなる異がございましょうや。お屋形様が五万の兵を率いる大将となられますよう、一同尽力する所存にて……」  「わしに桶狭間は為せぬと言いたいのか」  話を遮ってまでそんな話を持ち出す辺り、存念を捨てる気は更々ないらしい。  困ったものだと勝頼の青さに苦味を感じている信君が輪をかけて悪態づいたのは、神業の如き奇襲を成功させてしまった信長である。九郎義経が逆落しをかけた一ノ谷然り、寡兵かへいで大勢を破る奇襲は何時の世も武士もののふを自負する者の憧れ───如何にも勝頼と共に乱取稽古に狂う日々を過ごした武田の若衆が好みそうな、英雄譚の要素が信長の桶狭間には詰まっていた。しかも今の勝頼と大して変わらぬ歳でやってのけたから、より刺さるのであろう。信長とて実のところ、事に臨んで信玄に劣らず懸命に情報収集に励んでおり、決して行き当たりばったりの敢行ではなかったのだが……。喧嘩が強過ぎるというのも考えものだな、と思わざるを得ない信君であった。  彼は礼を欠く心苦しさを抱えて、想像し得る限り最大限の不吉で水を差した。  「無闇と御身を危うくする仕業はお慎みくだされと願い申し上げております。万が一にもお屋形様が討たれる始末とならば、武田はどうなります」  「討たれなければよい。無謀ではかからぬ」  砂山に雨垂れ一粒とあしらう揚げ足取りの返事を受けて、信君の忠告はつい桶の水を頭から浴びせる勢いとなった。  「四郎様はお家を潰されるおつもりか」  「口が過ぎるぞ、穴山」  勝頼がぴしゃりと叱責で打ち、間に緊張が走った。信君のいきり立ちを鎮めるには充分であった。  「……お言葉ではございますが、拙者はお屋形様をたすけ導くよう信玄公より仰せつかっております。物申すは武田家の、ひいては国の為。ひとえただして逆らうものではございませぬ」  勝頼はややめつけながらも黙って聞いている。さすがに言葉を選ばなかった非を認めた信君は、げるわけにはいかない主張を勝頼を非難しながらではなく、酷く遠回しな言い方に替えた。  「桶狭間の首尾は相手の不覚あってのもの。はばかりながら……今川義元公はご自身が大国の主であらせられたゆえ、尾張を小国と侮り、ご油断召されたとしか思えませぬ。されど信長は甲斐をそう見てはおらぬかと」  ひとつだけ確信をもって言えるのは信玄が絶対に手を出さない類の戦であるということ、それが勝頼の問いに対する信君の、否、勝頼を屋形と仰ぐ国衆の答えであった。  しかし信君は言及を避けた。臆病者めとそしられようと博奕ばくちは打てない。察してくれと縋る様な心を映した彼の面持ちを無視してしまえるほど、この若い屋形が薄情になれないことを信君は知っていた。  果たして勝頼は皆まで言わせることが信君に大層な気を遣わせてしまうことに思い至って、苛立ちのあまり物が言えなくなってしまった。  またそれを言うのかと屋形になってから何度思ったか知れない。信玄がしそうにないなら、かつて彼に従っていた誰にとってもそれは誤りなのである。彼等の概念となっている信玄の考えを覆すことは困難の極致と言っても過言ではない。できたらそれこそ神業であろう。  『わしの真似をするな。そなたの世を作れ。そなたの器量はこのわしを遥かに凌ぐ』  できるわけがない。一体どれだけ戦をしてどれだけ勝てば父を超えられるというのか……。  事ある毎に頭をよぎっては、及ばぬ者の諦めと、敬愛してやまぬ父に身の程知らずの野心をぶつける嫌悪感で断ち切ってきた葛藤が首に巻きついて、やけに息苦しい。信玄という概念に支配されているのは国衆に限った話ではないのだ。信玄の子である誇りを持ち、役目を受け継いだ者に、ある意味最も深く浸透していると言っていい。勝頼は深く考え込むあまり、我知らず膝に乗る拳をじっと見つめていた。  『このわしが言うんじゃ。信じよ。そなたは……』  家督を継いで以来、支えにしてきた父の最期の言葉が、倦厭うんざりすることに倦厭している勝頼の背を、この時ばかりは突き飛ばす強さで押した。自身が下す戦の判断は、自身が出す知行安堵の判物ほどに押し戴く価値がない。ならば遠回りでも勝ち戦を積み上げていく以外に従わせる術はない。口だけで人は動かせない。自身とてこうも口喧くちやかましく説教されながらまだ納得しきれぬではないか。  父を、武田信玄を超えるしかないのだ。  勝頼はとうとう鍵付きの抽斗ひきだしに閉じ込めていた決断を掴み出した。  途端に今までとは違う次元の孤独が、喉を掻っ切られて噴き出した血飛沫の様に容赦なく打撒ぶちまかれ、勝頼の心を濡れ鼠にした。それは自分の行動に他人の理解など必要としない強さを手に入れる為の代償であった。  全てにおいて敬い、憧れ、手本としてきた父は過去の人となった。菩提樹の下で静かに眠りに就いたその姿は言霊に変わり、枝には自分の死体がぶら下がっている。  おぼろげながら吐き気に似た胸の悪さを覚えた。これでいい。これでいいと思え、と何度も自分をなだめる。  屋形は二人もいらぬ。  信君は息を殺して食い入る様に勝頼を見つめていた。血の気を失ってより映える眉間の重い翳は、深い悲しみと寂しさのおもかげを懸命に潰そうとする勝頼の矜持に他ならなかった。  内からの強い感情に押し出された、信玄公の臨終でさえ見せなかった表情を何と見るべきか。  自身の思い込みの愚かさを今となって目の当たりにしていることだけは疑いようがなかった。あれだけ可愛がられていながら気丈なものよと感心していた鈍さが間抜けで滑稽ですらある。感情を極力表に出さないからといって傷つかない人間だと疑わず、年嵩を盾に信玄公の名を矛にしてこの若い屋形の心をどれほど無益に戦わせてきたのか、信君は勝頼が誰にも胸中を明かさない理由を察した以上に知ったに違いなかった。後悔してもしきれない罪悪感を攫おうと途轍もない庇護欲の波が押し寄せて心が溺れた。  「……わしもえて駿河と同じてつを踏もうとは思わん。穴山。仔細を山県と相談し、すぐに知らせよ」  勝頼は颯爽と立ち上がって主殿を去ろうとした。既に先刻までとは別人の、来た時と変わらぬ鉄仮面に戻っている。  「お待ちくだされ、お屋形様」  「話は済んだ。退がってよい」  信君は行かせまいと腕を伸ばして横を摺り抜ける葡萄茶えびちゃ色の肩衣かたぎぬの裾を掴んだ。そして驚いた勝頼が慮外を咎めるより早く深々と頭を下げて捲し立てた。  「無礼を承知の上で申し上げたき儀がございます。お屋形様のお心も知らず過ぎたる物言い仕りましたること、如何にお詫び致すべきか言葉を幾つ重ねても足りませぬ。つきましては信君、如何様にもお叱りを賜りとう存じまする」  「出し抜けに何を……」  何を今更、いつものことではないか。言おうとして萎えた。この男は人の心でも読めるのか。こうまで同情を引く何をしたのかと思ったが、だとしたらそんな態度を露呈してしまった落度の方を詰りたくある。  「何故おぬしに怒らねばならぬ。わしの胸のうちなど関わりあるまい。捨て置け」  勝頼にしてみれば信君の訴えはあの吊った死体を相手にしている様なものであった。吐き気を呼び戻されそうになって薄ら忌々しさすら覚える。  殊更に突き放す冷たい口振りを頭上に浴び、そう言わせる様に仕向けてきた自分の過ちを思い知らされた信君は、床に額を擦りつけんばかりに恐縮し、息を呑んだ。  「……お屋形様を諭さんとして信玄公の御名を二度と口には致しませぬ。拙者のお屋形様は四郎勝頼様のみ、先代様に倣わせるばかりはお心を裏切ることと肝に銘じて二度と……」  「もうよい。穴山。この上は申すな。真似をするなとは父上も仰せ遺されたことじゃ。おぬしも聞いておったであろう。思い出したならそれでよい。案じずともわしは父上のお言葉に倣うつもりでおる」  言い過ぎたことを反省しているのは伝わったらしい。だからといってこのまま退いてしまったら勝頼は腹を割って話す機会を二度と作らせないに違いない。強い焦燥感が信君を執拗に食い下がらせていた。新しい屋形と正しい結び目を作れるかどうか試されている時だと思った。  「いつまで離さぬ。下知に従わぬつもりか」  「滅相もないことにございます。ただ……」  「ただ……。何じゃ」  今度は勝頼が待つ番となったが、相手が何をして欲しいのかを透かしながら白々しく尋ねてしまった心境を持て余していた。八つ当たり、期待、憎しみ、弱さ、いずれも忌避したいものばかり浮かんでくるのに、こうも取り乱さずにいられるとは可笑おかしなことだ。屋形の立場を利用して、逆らえない者をけしかける類いの狡さに躊躇ためらいを感じる自分は何処へ行ったのか。  いや、これは未練だ。清々しく冷たい気分の内に何も住まわせていない快適な退屈さから、つい還らぬ者を探そうとしてしまう気紛れを装った───勝頼は粉々に叩き壊したくて信君の願いを聞いてやろうと思い立った。ただし信君が望まないであろう方法で。  「そういえば、先に……如何様にもお叱りを賜りたいなどと申しておったが」  「は……」  勝頼はしゃがんで「面を上げよ」と命じた。信君はやっと肩衣の裾への執着を手放した。長い睫毛に縁取られた漆黒の目を覗けるほどの距離に戸惑いながらも逸らすことだけは堪えた。  「おぬしにはそれよりもっと良きものを賜わろうぞ。……わかるな」  何ぞと恐察する間もなく勝頼の顔が喉首の根に埋まり、両腕で背を囲って上体を押し倒さんばかりにもたれてきた。  危うく勝頼ごと引っ繰り返りそうになって思わず抱き留めてしまい慌てた。いくら思いも寄らぬこととはいえ、勝頼の言う“良きもの”とやらが今以いまもって判らないほど鈍くはない。意味を解さぬ振りで切り抜けようとは思いつかないほど彼は激しく狼狽うろえていた。  「何たることを、何たる……。いけませぬ、斯様かようなことは断じていけませぬ、お屋形様」  少しでも離れなければと肩を押し退けたくとも、鍛え抜かれた若武者の体にしかかられていては腕を解いた途端に寝転がされてしまう。身動みじろぎもできず、ほとんど抱き締めるといった力で勝頼の体の重さを受け止めさせられたまま諫めたものの、情けないことに頭の中が真っ白になって自身には譫言うわごとの様に虚しく木霊こだまするだけだった。  「嫌と申さば他の者が代わるまでよ。穴山、それはおぬしの望むところではあるまい」  自身の抗う言葉などより遥かに明瞭に聞こえた勝頼の指摘は神鳴りの響きを以て信君の心の臓を打った。顎を喘がせ乱れる息をごくりとんだ喉の下にひたと押し当てられた唇の感触が、着物の上からでも判る硬い肉体からは想像のつかない柔さで夢とうつつを迷わせる。  どうしようもなく腕が震え、丈夫な背で圧し抑えようと更に強く抱き込むと、待ち構えていた様にしころをそっと捲られて甘露に化けた毒酒を耳に注がれる。  「……これより自侭じままはおぬしの前だけに致そう」  こんなことはいけない。わかっていながら口で口を塞がれて、閉じない唇の陥穽かんせいに滑り落ちた。  我儘は自分の前でだけだと言う。毒に酔って痺れた頭の中身を甘えてくる舌が泥にして、怖気づきながら甘やかしている舌から庇護欲を引き摺り出す。肉欲を吸って醜く膨らんだそれはもはや元の形を留めていなかった。絡ませれば絡ませるほど目指した結び目とはかけ離れた歪みをくくるばかりで、もう完全にこじれて解き方を見失ってしまった。  勝頼と固く結ばれたという錯覚を惹き起こす相互いの淫らが日々抱えていたわだかまりを溶かしていく。私はお屋形様のもの、お屋形様は私のものと密かに唱える快感に捕まって、誰かに取られるくらいなら、と欲張った矢先にひらりとかわす様な舌の引き際が悩ましい。  熟れた睫毛が滴る目は月を忘れた夜陰の色ばかりで何も映っていなかった。深淵を覗いている様で背筋に悪寒が走ったが信君には微塵も不快ではなかった。  「後は御座所にて……存分に慰めよ。よいな。信君」
20250406