前を歩いていた鯉登少尉が突然ピタリと足を止めたので、月島軍曹も反射的に倣って立ち止まる。  「どうかしましたか」  至極当然と尋ねた月島を鯉登は振り返り、背丈の大きさから至極当然と瞰<み>た。月島は兄が――今も生きていれば――同じ頃合いの、一回り程上の齢だが、帝国陸軍の階級制度上では部下である。また将校の雛に規律や心構えを叩き込む厳しい親鳥でもあった。二人連れ立って歩く時はいつも鯉登の長い腕を伸ばせば辛うじて届く距離を置いて、補佐と護衛の役を兼ねた月島が随<つ>いて行く。  「鯉登少尉?」  稍<やや>訝しげな月島に向かって鯉登は唇に指の柵を立てて隠した。かと思うと、ぱっと外してみせた。以前、樺太でヤマダ馬曲団に仕込まれた投げ接吻というやつだ。  「………………」  月島は生真面目な表情を全く変えず、首を左に傾げて避ける素振りをしてみせた。鯉登は蛇でも見た犬の様に吃驚<びっくり>した顔をしたが、懲りずにまたキスを投げた。樺太公演では曲芸の最中に鯉登の投げ接吻で黄色い悲鳴が上がり、練習中では気を失った女性もいた程だ。彼は自分の投げ接吻の攻撃力を生まれて初めて知ったのであった。効かない相手も勿論いて、まあ月島にも期待はしていないものの、正面切って避けられると無性に腹が立つというものだ。今度は右に首を傾げた月島が些か憎たらしくなって、三度目の接吻を投げるとさっと跼<せぐくま>って躱された。  「何故避ける、月島軍曹」  鯉登は軍令違反を咎める風な口調で詰問した、にも拘らず向きになって素早く以下略。すると月島はその見えない吻<くちびる>の飛礫<つぶて>を右の掌に受けて、書き損じの紙の如くぐしゃぐしゃと丸め潰して、面子宜しく地面に叩き付けた!  「月島ァ!!」  本当に面子を打った時の乾いた音が聞こえてきそうな見事な反応であった。鯉登は傷付き怒って声を荒げたが、月島の情を振り回す力は持たなかった。彼は上官の眉間の険を他人事と眺めながら「そんなもの投げないでください」と然有<さあ>らぬ体で訴えただけであった。  鯉登は肩を聳<そびや>やかして吸い込んだ息を細く長く吐き出し、幾分かでも険を逃そうと努めた。月島はいつもこうだ。辛気臭い顔して全く。冗談も通じん。遊び心が枯れているのだ(歳の所為だろうか)。  「私が嫌いか」  「好き嫌いの問題じゃありません」  「では何だ」  「そんな……、投げられたって嬉しくありませんよ、私は」  興行の女性客じゃないんですから、という含みを持たせるに留めたのは諄<くど>かろうと慮ったからだが、月島の言い分を聞くなり鯉登は「そうか!」と独り語ちつつ、利き手で作った握り拳の底を反対の掌に軽く押印した。  「月島には直接渡さなければ」  「はあ。え?」  莫迦莫迦しい問答から一転、鯉登の意図を解す暇には及ばない間隙を縫って右の腕が周章<あわ>てる月島を留める。掴んだ外套の胸元に俊敏に近寄って庇<ひさし>となり唇を押し当てるまでが咄嗟の出来事で、防ぐ恰好さえ儘ならない。  「私が悪かった……」  離した唇が月島の体温と感触の余韻に微睡んで、声まで春眠覚め遣らず、詫び言も相俟って、妙に悄<しお>らしさを醸してはいたが、瞬きを度忘れした月島の目には酔いの宵に映った。猫に木天蓼<マタタビ>、鯉登に月島。そんな莫迦な。逆にお茶をぶっ掛ける役を担う軍曹には、少尉の情態が怪体<けったい>である。  「考えてみれば、投げて寄越すなんて不作法だ」  そういう問題でもないと思います、と言わなければ……言わなければ、いつもの様に。などという焦燥を微塵も察しない鯉登は右の掌を月島の左の頬に沿わせて、親指で目縁の下を緩<ゆる>りと頻りに撫でている。納得のいく解を導き出して満足したからか、残ったものだけで不穏にも少尉はまだ酔っている。それが物凄い圧となって月島を噤ませているのだった。彼は我知らず唇を固く引き結んでいた。  「怒っているのか?どうして黙っているんだ、なあ、月島……」  期待した反応でもなければ、予測した反応でもないのに、得体の知れない楽観的な気分に襲われる。万能感を伴った馴れ馴れしさ、月島はいつも最後には我儘を許してくれるから攫ってしまいたいのだけれど、月島の為に煩悩を殺して甘えていると自覚する事の独り善がりな悦びを持て余して、預ける先の唇に懐こうと鯉登は身を屈めた。  「私を困らせようとしても無駄ですよ、鯉登少尉」  目睫の間で月島は瞼に瞬きを思い出し、傲慢な優しさを纏う鯉登の手を摘みながら諫めた。無駄なのは自分の義務感の方になるだろう、と癖になってしまった諦観で予見してはいるが。どうせ鯉登少尉は聞かない。  それが捕らえたものに興味を示さない力と表れて、取られた手によく判る。鯉登は忌々し気に振り外すや否や、月島の手の甲を指も纏めて砕かんばかりに握り締めた。  「鯉登少尉、ッ」  問答無用といきなり綴じ込まれた唇に隔意を責められ、舌に息まで詰られる。顔を覗き込んで構うくせに、頭を後ろから直<ひた>押して逃げるのは許さないと仄めかす。溶けるを拒む月島の舌に舌を繋いで心までと説く。鯉登の縦<ほしいまま>に目まで侵されては敵わないと視界を遮断したら、熱さと滑りが口膣で膨れ上がった。  「…!ッ、…ァ…!」  空いた手が外套の袖に獅噛み付いた事に月島は気付かない。この若い上官の気随の真率さときたら、感情任せの行動は慎め(これはいつも言っているのにこの有様)だの、職権濫用も甚だしいだのと、痺れつつある頭の隈<くま>でつい説教の文句を練ってしまう我方の非を疑わせる程。月島は遂に折れて上顎の前の歯列の裏を擽る舌と縒れ、それに準ずる様に少尉は手の拘束を緩めて指を縒り応えた。彼は血の巡りを縛られぐったりした月島の指の、どれともいわず丁寧に弄びながら、背骨や唾液腺への刺激を、触れる箇所から流し込み続けた。  「こういうことはな、月島」  漸く酔いが醒めたのか、鯉登は不意に冗談を一切両断する様な真剣さを顔に携え――相手の指間悉<ことごと>くに自分の指を挿し込み、節を鉤にし把持しながら――息衝き気味の月島を凝<じっ>と見詰めた。  「好き嫌いの問題だと、私は思っている」
20200910