「用を足す他に、使い途がないと思っていたんですけど、これ……」  軍袴の股釦を全て外して下帯の前袋の片脇から取り出された一物は、掌にずっしりと重く、大きさも自分とは比較にならなかった。使い古された木刀の柄の様な燻赫<くす>みも、前袋に収まる様刈られた黒芝も、宇佐美少年を関心と感心の綯い混じった昂奮へ駆り立てる。こんなに大人の将校さんが相手に選んでくれる事が、子供っぽい自尊心と、やはり自分はこの人の特別なのだという確信とを肥大させ、拒絶を恐れない、撓垂れ掛かった態度が熟<う>れる。  「ふふ、僕見ちゃったんですよ。母が、父の、これと同じものを咥えているところを」  鶴見篤四郎少尉は組んだ胡坐<あぐら>の中に突っ込んだ毬栗頭をそっと撫でながら微苦笑した。見られた両親の立場を汲みながらも、この少年が躊躇いもせず口を寄せた道理を諒としたからである。  「さぞ御両親も困惑されただろうね」  「いいえ。慌てて寝た振りしたから、露顕<バレ>ずに済みました。でもその後ちっとも眠れなくて……」  恐らくは見てはいけないものを見てしまった―――こんな時に擡げるであろう罪悪感からの気拙さなどこの少年には生来欠落した心の動きであるのか、曾<かつ>て味わった事のない昂奮だけが布団の中一杯に籠って、宇佐美少年を悦びの筵<むしろ>で一晩中包んだ。彼は両親の優しくて朗らかな印象を損って失望するどころか、誰にも覗かれたくないであろう秘密を共有している事に寧ろ羨望を覚えた。  あの行為には子供が考え得る仲睦まじい絆の健全さが微塵も感じられなかった。だからこそ外で愛想を振り撒く様にはいかず、それこそ布団の中一杯に籠る様にして互いを二人だけの世界に閉じ込めてしまうのではないか?  「また増えちゃいますね。“僕と篤四郎さんだけのヒミツ”」  秘密の共有を持ち掛けたのは鶴見の方からだった。僕でなければいけないんだ。だって僕は篤四郎さんの“いちばん”だから。  宇佐美少年は嬉々として一度亀頭を唇で柔く食むと、口角寄りに黒子をくっつけた二つの頬を仄りと染め、莞爾<にっこり>として鶴見を仰いだ。  鶴見は目元と口元を――穏やかな慈愛を殊更強調すべく――綻ばせながら、ちょんと尖った形をしている上唇に人差し指の頭を宛行<あてが>った。  「いけない子だね。君は、本当に、可愛くっていけない」  乱取り稽古を終えた道場は閑散として、窓枠を満たした西日だけを畳に影と残していた。  帯で縛った道着を提げて玄関を出た鶴見は振り返り、下見板を張った桟瓦葺きの木造建屋に向かって一礼した。そして踵を再び帰る方へと向けた時、眼前の景色を占領する徒<だだ>っ広い敷地に、先刻まで熱心に稽古に取り組んでいた大勢の若者のうちの一人を見つけた。唐桟<とうざん>の馬乗袴に下駄姿という在り来りの恰好をした後ろ姿でも少年が誰かはすぐに判別が付いた。勿論、此処にいる理由も。  鶴見は暫く黙って少年を観察した。佇んで微動だにせず、どうも門の右側の木塀の前に設けられた駒繋ぎに結わえられ口を馬水槽に浸している青毛の馬を、後脚で蹴り飛ばされる心配がないだけの距離を保って眺めている様である。武田先生の牡馬<ぼば>は気性難で飼い主以外は迂闊に近寄れないのだ(尤もこの時代は政府が馬政第次一計画を実施する10年程前で、馬匹改良されておらず、雄は殆どが未去勢の悍馬<かんば>である)。  其処は以前、鶴見の鹿毛の指定席であった。よく懐いていた牝馬<ひんば>だったが、今はもういない。  「まだ帰ってなかったのかい?時重くん」  近寄って背中越しに声を掛けると、時重は道場で唯一人肋骨服の軍衣を纏う将校の姿を認めて寂しげに微笑んだ。  「だって篤四郎さんが道場へ来るのは今日が最後だから……」  待っていると確信していたが鶴見は口に出さなかった。この少年はこんな子供らしい感情だけでこの場所に留まっているわけではない。  「今生の別れでもないだろう?前に言ったはずだよ、第七師団で君を待つと」  鶴見は最近になってここ新発田に営所を置く第二師団所属の歩兵16聯隊から、北海道を衛戍地とする第七師団への異動が決まり、武田先生の元へ出立前の挨拶に伺ったのである。有態に言えば左遷であった。鶴見の鹿毛が上官の息子を蹴り殺してしまったのだ。二年前の出来事だった。  「はい。早く立派な兵隊さんになって、篤四郎さんと一緒になりたいです。あの日から僕たちの運命は一蓮托生……でしょ?」  言外の明白<あからさま>な含みに時重の胸中が詰まっていた。鶴見は悟ったが聞き流して、顔に貼り付け慣れた淑やかな微笑を答えとした。  「さあ、もう帰ろう、時重くん。遅くなると家の人が心配するよ」  「でも……もう少しここにいたいんです」  この少年は本人曰く、彼の家から歩いて二時間は掛かるであろう道程を、あの日此処で起こった出来事を素敵な思い出として反芻したいが為に、稽古のない日でも“聖地”と呼ばわるこの“何の変哲もない道場の敷地の片隅”目指してついふらりと足を運んでしまうらしい。  「明日にでもまた来ればいい。君の“聖地”は逃げないさ」  時重の親友(仮)は東京の陸軍士官学校に入校すべく道場を通い納めとした日、一度も勝てた試しのない幼馴染との最後の乱取りに青春の全てを懸けて臨み―――背負落<せおいおとし>を掛けられ仰臥したところを、時重が憤怒の形相で喉を踏み潰して息の根を止めた。子供とはいえ日頃から足踏水車で足腰を鍛えている彼には容易<わけな>い作業であった。二人の勝負を見届けるべく審判を買って出た鶴見の他に目撃者はいなかった。  友情劇から殺人劇の不意打ちを喰らった鶴見は、不利な感情を表情に預けたがらぬ自分の性質<たち>を悉皆<すっかり>忘れ、あの時ばかりはぎょっとした。慌てて親友(仮)に駆け寄り助け起こすも、全身の硬直に顔面蒼白、涎に白目に変な呼吸とくればもう手遅れであった。  「わかってます。僕が人を初めて殺した場所は、あの日からずっと変わらず僕の心を満たしてやみません。……僕がここへ来られる限りは」  時重の科白の末尾は泥<なず>んでいた。鶴見に背を向けた。軍人は気儘に衛戍地を離れられない。  鶴見は時重の左隣に並んで視線の先を同じくしてから、首を横に、視線を下げた。団栗眼が青毛に釘付けになっていた。鶴見の勘はこの少年が此処に居る目的を完璧に察した。と同時に鹿毛を利用して殺人の隠蔽を謀った時の閃きが、時重を見下ろす彼の眦を嫌に冷たくした。  部下の愛馬に息子が蹴り殺されたとの報せを受け取った上官は、現場に駆け付けるなり怒りに任せて鹿毛を射殺した。その瞬間から彼等は世間を欺く事に成功し、時重にとって鹿毛の残骸は人生を揺るがす秘密を鶴見と共有する証となった。それに向けた瞳孔の色は刀の様に晃乎<きらり>と冴え、引き締めた口元から隠さねばならぬ類の愉悦が食みだしている様に見えた。人を悪寒走らせる毒気で洗い晒した、子供らしからぬ表情……。  鶴見は恩師の愛馬を思い出の縁<よすが>にするのは忍びないと思った、それに―――自分にはこの青毛を不憫にする理由がない。  「すぐに戻るから、少し待っていなさい」  時重の肩に手を置くと彼は建屋を目指した。玄関の内に姿が消え、それから程なくして武田先生と連れ立って戻って来た。  「君達、あまり遅くならない様にね」  老翁は日頃から何もなくても相好を崩した寡言の人である。時重は諾<はい>と返事をして、お辞儀をしながら「先生、さようなら」と挨拶した。その間に鶴見が駒繋ぎから外した轡紐を老翁は受け取り礼を言うと、門の外まで彼に見送られて道場を後にした。  「武田先生が今日は特別だって許してくださったよ」  門に向かって茫乎<ぼんやり>と突っ立っている時重の元へ戻って来た鶴見の右手には道場の鍵が撮んであった。  「おいで」  前袋の中で鍛錬の後の汗熟<あせいき>れに塗れて寝ていた陰茎は嵩高く固く突き上げる形に血管の蚯蚓<ミミズ>が這う火照り色と変貌し、唾液とそれに似た先走りの液で滑滑<ぬめぬめ>になっていた。  鶴見は時重の頭や肩や耳朶や首の後ろや時には頬を愛惜しげに触ってやりながら、好きに嬲らせていた。時重は畳に這い蹲る体勢で、腫れ上がった陰嚢の左方を手で捏ねながら、右方を舐め回している。時々頬張ると歯がやんわりと当たって舌や唇だけの物足りなさを補う。今度は反対に同じ事を、それを交互に何度も繰り返した。両の親指の腹をそれぞれの陰嚢に擦りつけ、少し外に押し開いた真ん中の浅溝で、窄めた舌端を上下に歩かせて、膠頽<べちゃり>と舌の腹で拭く。亀頭から竿を溝まで伝い落ちてきた液を舌で掬い上げ、そのまま上へと這わせ、付け根を先端で擽られる。鶴見の額は湿り、息からは徐々に平静が蒸発していく。棒飴を舐振<しゃぶ>るみたいに執拗な味わい方をする。女郎にもこんなに丹念に弄<いら>われた事はない。  「なんだか……、僕、気持ちよくなってきちゃいました」  時重は溜<ふう>と息を吐き陰茎を恍惚と眺めて呟き、瞥<ちら>と鶴見の表情を確かめた。殺した微醺が眉の辺りに漂っている。記憶にない表情である。覚えた悸<ときめ>きに悸き、ただ鶴見の額に掛かる懶<しどけな>い前髪を指でそっと掻きたいと思った。  子供の癖になんて目をして私を見るのか、目尻を埋める堆<うずたか>い睫毛でさえ劣情で繁殖しかねない、裏切ったら発狂しかねない凄みを無意識に孕んだ、少年の目はもう完全に惚れた女のそれであった。  親友(仮)が父親の権威故に鶴見から特別視されていたのも、幼年学校から士官街道を直走って今より鶴見に縁近くなっていくのも、それを直前まで伝えず見下していた(時重の主観である)のも、うん、まあ……許す!と自分に言い聞かせ無理にでも納得させていたこの少年が、どうしても我慢ならずに親友(仮)を殺すに至った動機は、遂に柔道に於いて時重に負けっ放しのまま故郷を離れる結末に独り意気消沈していた親友(仮)を励ました鶴見の言葉にあった。気持ちの強さは負けていないからきっといつか時重に勝てる云々、などと正直言った本人も曖昧にしか覚えていない程度の気安さしかない子供相手のお慰みが、立ち聞きしてしまった時重には堪らなかった。  今まで見た子供の中で最も才能があると褒めてくれた鶴見が同じ口で親友(仮)に蹌踉<よろ>めいて――“篤四郎さんが僕を一番だと認めてくれていたことだけが僕のすべてだったのに”――与えた存在意義を今更奪おうというのか。時重は不動明王を憑かせて頑是なく喚いたが、鶴見が胸に抱き寄せ適当に言い繕うと、子供の無邪気と無知を発揮してあっという間に機嫌を治した。きっとこの子は大人になっても、自分に向けられた私の行動や言動、例えそれがどんなに酷い暴力でも命令でも、たった一人胸間の特等席に座らせていると思い込ませてさえおけば幾らでも受け入れるに違いない。  「私もだよ、時重くん。君より上手な子も、そうそういないだろうね」  「そうなんですか?」  良かった、と安堵の破顔で言葉を交わす間にも棒飴を人差し指で沿<つー>と焦らして刺激を与える事を止めない。肉の中の蚯蚓の痙攣が伝播した竿の顫動と、枯れ知らずにされた亀頭の滴下がもっと強い刺激を訴えている。時重は竿の雁に近い部分の蚯蚓に目を惹かれ舌先で追いながら下半分を掌で包んで揉んだり扱いたりを始めた。鶴見の呼吸は愈愈<いよいよ>乱れ、舌が雁首や亀頭の裏筋を侵し始めると、溜息と共に小さな肩の上で着物を毟った。促されているとしか感じられず、篤四郎さんが僕の舌で快がっている、そう思うと時重は舌の根が疲れているのも忘れ、陰茎の根元を握って口で触り易い角度に動かしながら舐振り続けるのだった。  雁首を何周も滑った後、裏筋に歯を引っ掛ける。先走りの液を吹き零した亀頭の先端にある穴を親指で塞ぎ、裏筋を舐めては唇を留めて吸いつく。鶴見の腰の感覚が這いがってくる暈<ぼや>けた熱と痺れに襲われる。喉を突きたくて堪らなくなる。  「銜えてごらん」  後頭部を、力を少しだけ強くして押した鶴見に言われるがまま、亀頭に口を被せる。篤四郎さんの体が僕の体の中に入ってくる。口膣が一気に噎せ返る。  「ぁあ、はぁ、…ァふ…、ぅぅん…はぁ……っあァ篤四郎さぁん……」  時重はもう夢中で亀頭と雁を出したり入れたりしながら貪った。右の掌で竿を撫で回しては左の掌で陰嚢の底を擦<なす>り回して、性器の至る所を嬲った。少しでも離してしまう度に陰部が繋ぎ留め置きたいのか後ろ髪と粘糸に引かれて口や手がまた縒りを戻す。やはり不健全さにこそ切っても切れない縁とやらは存在するに違いない。身を以て知り、篤四郎さんに犯されて純潔を喪う事に眩暈がする程の歓びを覚えて嘔吐<えず>きそうになる。  口膣に溜めて置けなくなった涎に何だか白い濁りが混じっている。当然ながら時重は気付かずに、竿をもっと怒張させようと甚<きつ>く扱き、付け根に親指の爪をぐっと立て、頭を上下に動かし続けた。  と、何故か押し退けようとする力を肩に感じた。離したくないと躍起になって竿を握り締め亀頭に歯を立て逆らった瞬間、鶴見の全身が強張った。  「!!」  鶴見は唇を縫い呻吟を噛み殺しながら逸<イッ>た。時重は急に上顎を熱い迸りに突かれて、口膣に散撒<ばらま>かれた何だかよく解らない滑った液を嚥下し尽くした。  「全部飲んでしまったのかい?お腹壊すよ」  頭の動きが止まって舌が喘いだのを感じたので、背中を労わると、時重は張りの失せた陰茎を解放した。途端に咳込んだ。鶴見は尚も背中を擦りながら片息が回復するのを待った。漸く上半身が起って、口元を手の甲で拭いながら、見ると目が少し濡れている。  「さっき、僕が飲んだもの、何だったんですか?」  鶴見はどう説明しようか暫し勘考した挙句、結局「精子」とだけ答えた。時重とは将来縁深いものになるのだが、それはまた別のお話……。  「精子かー。解りませんけど……。篤四郎さんがくれるものなら何だってご褒美になるんです。だって僕は篤四郎さんの“いちばん”だから」  御褒美を貰えて当たり前、というわけである。どうも理論が転倒している気がするが、そう思い込んでいてくれる方が都合が良い。  鶴見は腕を伸ばして背を攫うと頭を胸に掻い込んだ。似た記憶が脳裏を過った。  「君がずっと私の“いちばん”でいてくれる事を心から望むよ」  時重は紅潮した頬をぴったりと広い胸にくっつけて軍衣の肘の辺りをぎゅっと握った。  「…………じゃあ、続き、してくれますか?」  ああ、そういえば一部始終を知っているのも無理はない。時重の暴露話を思い出した鶴見は早熟<ませ>たお強請<ねだ>りに微苦笑したが、可愛い顎を撮んで上に傾け目を合わせた時にはもう苦味の痕跡だけを跡形もなく消している。  「そうだね、時重くんが大人になって第七師団に入隊したら……約束するよ。だから、早くおいで」  (君は私の“いちばん”役に立つ犬になってくれるだろうから)  言葉の綾だと開き直る為に必要な良心の呵責を鶴見は持ち合わせておらず、命を奪う行為に罪の意識を喚起する良心そのものを知らずにいる存在に、好意と偽った興味を隠そうともせず視線を注いでいる。  “殺人への抵抗”という“飛び越えられない壁”に囲まれて育った人間は、どんなに厳しい訓練に耐えられても戦争の非日常には精神的になかなか順応出来ない。恐怖や使命感や功名心の援護射撃で潜り抜けたとしても、殺人の体験は抜けない棘となって人生に埋<い>かるのが正しい反応であろう。長閑な田舎の村で、近隣の少年等と同じ教育を受け、道の理念も学び、家庭も円満で、友人もいて、挫折にも際立った不幸にも見舞われず過ごしてきた、其処辺<そこいら>の境遇の少年が、私の承認を人生の全てだと妄信し、蚊を殺す感覚で人を殺せる。その羊の群れの中の犬は、日清戦争で正しい人間を集めた小隊を指揮してからというもの、稀覯の禁書の価値を以て求められる存在となった。これは育った環境ではなく稟性の問題であろうと思われる。羊の親から犬が産まれた理由など誰にも解らない。神の悪戯として片付けるしかない。だが本来なら忌み哀しむべき因縁の持ち主も、時と場所に依って優れた人材となり得る。軍隊と彼は互いの救いになるはずだ……。  「私には君のような人間が必要で、君には私が必要。まさに天の配剤……」  ふ、と皮肉が微かに支え上げた唇の端が、何か良からぬ事を愉しげに思い出している様で、時重の目には大人の艶かしさと紛うばかり、鶴見にとっての“聖地”が自分であれば良いと願うばかり。もっと彼の記憶に刻もうと唇を其処に捺すと、窄まった上唇を啄まれ、頭が沸騰<のぼ>せてしまいそう……。  僕と篤四郎さんの望みが叶って、もう此処へ好きな時に来られなくなったとしても、馬は何処にでも居る。  あれは、色が違う。
20200918