札幌停車場は火災に遭った二代目の駅舎を改築したばかりで、市内に若干<そこばく>と聳える瀟洒で豪勢な洋館風建造物の仲間入りを果たした三代目に、今宵も人が誘<おび>かれて往<い>く。排障器の袴<スカート>を履き、二本の茶筅<ちゃせん>を上下の向きで結合させた形の巨大な煙突から夥しい煤煙を噴く外国製の黒い牽引車を迎え入れ、繋がれた幾つかの長箱に乗せた客は、最後列の三等客車に一人である。  背嚢を背負った若い軍人。星印に条無黄縅を刷いた軍帽、三本線の袖章、両側に赤縅の入った軍袴、聯隊番号を刺繍した赤い肩章から、北海道に常備する第七師団隷下の四個歩兵聯隊の内、第27聯隊所属の上等兵と判る。名を宇佐美時重という。産は新潟で、本来なら第二師団の歩兵第16聯隊に配賦されるところを、敬慕して已まない同郷の上官の計らいにより、念願叶って彼と同じ聯隊に名を連ね今日に至る。  後部の外甲板から上がって扉を開けると、外からは連なる窓の内側を窺い知る術のない冥<くら>さだけだったのに、車室は目が慌てて眇<すが>んでしまう程、洋燈<ランプ>の恩恵を浴びて煌煌<こうこう>としていた。扉を閉めると蒸気機関車は徐<おもむろ>に走り出した。  中を概観する。中央通路の真ん中に設置された球形煖爐<タコストーブ>を囲んで談笑する四人の内の一人が囚人服の鮮やかな橙色で気を引いた。手枷を嵌められた両手で時々手真似を加えながら、先の戦争で見飽きた黒い毛皮帽の露西亜の傷痍軍人と互いにお国言葉で淀みなく喋っている。着席している者は皆、椅子の方向に従い此方に背を向けている。隣と語らう客もいれば大人しく端座している客、舟を漕いでいる、読書に耽る、窓際の客は景色を眺める等。  仄暖かい車室の通路を、左右の席を一瞥しながら歩く。毛織角巻<ストール>を羽織った年行きの女性。膝に視線を落として身動<みじろ>ぎ一つしない袴姿の少年。黒い外套と学生帽の眼鏡青年。何処ぞの監獄の看守。乞食宛<さなが>らの襤褸を着た季節労働者。脚を組んで煙管を一服する男は濃い目鼻立ちと着物の文様からアイヌで、窓硝子に流し目を遣っている。通路を塞いで暖を取る連中に「すみません」と一言断ると、脇に退いて道を譲られる。相手が軍人だと嫌な顔をしない。沈んだ面持ちの母親と、動く大きな木箱に初めて乗り心躍らせる女の子。背凭れの木枠に真直ぐ背を沿わせ、軽く握った白手袋の拳を腿に乗せ、俯き加減に折り目正しく窓の横に座しているのは宇佐美より若年の将校(兵卒の宇佐美は規律に則った敬礼を忘れない)。実に様々な立場の人間が乗り合わせ、定員四〇人足らずの客車の中に世間を作っている。  「あの……。隣、よかったらどうぞ」  最前列の座席に並んだ時、左手側から遠慮しがちに声が掛かった。明るい髪の色の、目にあどけなさを残した嫋やかな印象の青年は、珍しい白熊の着包<きぐる>みで首から下に完璧な防寒対策を施していた。重い背嚢を背負っているし、席は此処しか空いていないしで断る理由がないので、軍帽を脱いで「ありがとうございます」と礼を言ってまた冠り、降ろした背嚢を足元に置いて、二人掛けの板張りの長椅子に腰を下ろす。  隣が着包みで恰幅が良くなっている所為で体が近い。白熊青年は全身が煤で汚れているのに、風呂上がりの好い匂いがする。宇佐美が瞥<ちら>と向くと、隣は既に此方を見ていた。視線が合った弾みで、黙っているよりはと何方からともなく世間話の切欠が碰<ポン>と飛び出た。  「あなたはどちらまで行かれるんですか?」  「小樽です」  「え?僕もなんです。奇遇だなあ」  「何しにですか」  「大切なひとに会いに行くんです」  「え?僕もなんです。奇遇だなあ」  二人は鸚鵡返しの会話をして互いに明るい表情を見せ合った。白熊青年は思いも掛けず同じ行先と目的を持った旅のお供が出来た嬉しさから、悉皆<うっかり>浮かれて頬を紅潮させ、誰にも話せなかったであろう身上話を打ち明けた。  「僕は夕張から来たんです。あのひとと過ごしたのは僅かな時間でしたが、本当に、本当に、心から楽しくて……生まれ変わった気分でした」  突如として耳の中に轟轟と波が渦巻く。列車が隧道<トンネル>に入ったらしい。宇佐美が白熊青年越しに窓から外を確かめると、硝子一面を塗り潰す鉛色の雲が神隠しにでも遭った様に文字通り雲散霧消した。壁に灯が点在しており、裸褌の炭鉱夫が彼方此方で鑿や鶴嘴を振るい、砕いた炭層の欠片を満載した、宇佐美の背嚢より重かろう竹畚<もっこ>を背負う半裸の炭鉱婦も判別出来た。誰も仕事の手を止めて此方を見ようともしないどころか、炭車<モロッコ>の軌条<レール>上を通過中の蒸気機関車に全く気づかない様子であった。白熊青年は懐かしみながら坑内を眺めた。  「ただ、ひとつだけ心残りがあって……。僕がここからあのひとのところへ送った大事な荷物、人に託したんですけど、無事に着いたんでしょうか」  「ちゃんと届いてますよ」  「ああ、よかった」  彼は熊の掌で鼻と口元を手挟んだ内に長い溜息を逃がす、悴<かじか>んだ手を解す仕草で、安堵する余り涙腺が緩んでしまった表情を温めた。宇佐美の眺める横顔は誰もが祝福したくなる健気さが、自分より他人を大事に想える人にしか表せない素直な優しさが滲んでいた。  「僕を初めて認めてくれたひと……。とても嬉しかった。それまではずっと独りぼっちだったから……。だから会ってお礼が言いたくて」  「わかるわかる」  宇佐美は余程吾身に重なる話だったのか、諾諾<うんうん>と満足気に肯く。  「あなたも同じ経験を?」  「たった今、よくやったと褒められたばかりです。それから……」  右手を持ち上げて甲の右端を眺め、次に引っ繰り返して掌の左端を眺めながら、うふ……と微笑<わら>う。小指が関節の二つ目までを失い、骨が剥き出しになった粗い切断面から血が滴っている。  「僕の大切なひとは、この手をぎゅっと握り締めて、指を噛み切って、これで一緒だからって。自分の中で一番の友達として生き続けるんだって、言ってくれました」  「素敵ですね」  「でしょでしょ?あっ、これも、あのひとが叱った時に落書きしたのを刺青にしちゃったんですよう」  指差した左右の頬には走る棒人間の姿が対照的に描かれている。元々その位置にあった黒子に手足を加筆したものである。ちょっと類のない絵柄と場所なので、実は初見から気になっていた白熊青年は、紹介されたのを機に、珍しい舶来品でも見詰める様な興味を堂々と目に持たせた。  「僕は子供の頃からあのひとの“いちばん”だったんです。だって、あのひとがそう認めてくれたから……」  窓硝子が溶けそうな程、暮れ泥む陽が内に滲み、二人は同時に外を向いた。遠くには雑木林を背景に、水面を早苗の横縞模様が何処までも広がり、足踏水車と小屋、学校帰りの畦道、お寺と鐘、住んでいた家の造りに似た何軒かが点点<ぽつぽつ>と。  「ああ……、僕の故郷ですね」  「どなたか懐かしいひとはいますか」  「いいえ。特には。僕にはあのひとだけですから」  家族は両親と姉と弟が二人、皆健康で仲が良く、忘れたい人達ではないが、顔をちっとも思い出せない。学校の同級生や先生、柔道の師範、近所の人は言うに及ばない。故郷に残してきたものはたったひとつ、自分とあのひとしか知らない。曾て通った道場の屋根を覗かせる木塀が現れた瞬間、そのたったひとつが昨日の記憶の様に甦る。あの広く囲まれた敷地の片隅には跳釣瓶を備えた正方形の井筒があって、その傍に植込みがしてあって、短い雑草が斑に生えていて、正門の近くに駒繋ぎがあって……稽古のない日にも片道二時間を歩いて何度も何度も通っては感慨に耽った場所。初めて人を殺した、思い出の聖地。あの時、子供心に純潔の喪失を確かに覚えたが、心は満たされていた。穢れた自分が愛おしくて堪らなかった―――きっとあのひとの所為で人を殺したからに違いない。  真に自分を穢したのは、あのひと。だからあのひとにも穢れて貰った。  過ぎ去った景色を回想し、右手を胸にそっと当てて、あのひとに大人にされた時間を慈しむ。不幸な事故として片付けたのも二人だけの秘密。  「あのひとの“いちばん”は僕だけでいいんです。あなたもそう思うでしょ?」  「おかしなことを言いますねえ。一番は一人しかいないものでしょう?」  「ですよねですよねえ」  諾諾<うんうん>と満足気に肯く。何時の間にか夜になっていた。車輪で骨を踏み拉ぐ音に編上靴の底を擽られながら暫し寛ぐ。通路の囚人が俯き、震える肩を露西亜人に慰められながら静かに泣いている。煖爐に降る牡丹雨は蒸発して跡形も残らない。  汽笛の嘶<いなな>きを、煙と共に後ろに流れる靡き藻と形象して聞いていると、それが疾駆する動物の尻尾に変わり、乾いた土に埃を巻き上げる蹄の音までついてきた。白熊青年は外の様子を窺った。  「わっ、見てください。馬が走ってますよ」  装具を着けた鹿毛が一頭、黒い鬣<たてがみ>と尾を鰭にして、列車と並んでいる。その姿は彼等の座席の窓枠に収まり続け、写実主義の絵が動いている様である。  「あれ、僕をここまで連れて来た馬に似てるなあ」  と言っても所有者は宇佐美ではなく麦酒工場の火災に駆けつけた札幌消防組で、蒸気喞筒<ポンプ>を曳いてきた二頭の馬の片割れを僥倖とばかり勝手に拝借してきたのだが。  「あんげな色した馬選ぶすけ…………」  「え?」  故郷の訛りが大人らしくない声をして何処かで呟いたので宇佐美は反射的に振り返って通路を覗いた。後ろは無関係と雑<ざわ>めくばかりで誰とも目が合わない。気の所為かと顔を仕舞い掛けた時、二列後ろの、通路を挟んで反対側の座席の奥で、若い将校が顔を窓に向けているのがふと目に留まった。釣られて同じ方を見ると、彼方の窓の向こうからトトトトトト……トトトトトト……覚えのあるマキシム機関銃の射撃音が近づいてくる。撃たれる前は蚤と虱に塗れ、撃たれた後は蛆と蠅に集られ、無数の仲間が泥と血を被って餌に群がる蟻の様に敵陣の前を覆い尽くしている。援護の二十八珊米<サンチメートル>榴弾砲が遠く前方で落下して土中で炸裂し、人間の形をしていたものを四方に撒き散らし、墓にしろと言わんばかりの大きな穴を新たに敵の陣地内に作った。新たに塹壕から飛び出した兵隊が、身を隠す場所がない丘陵を一気呵成に駆け上がり、当たり前の様に機関銃の的になって、大勢が物凄い速さで死んでいく。中腹で味方の死体を積み上げた急拵えの堡塁の陰で腹這いになっているところを、堡塁ごと爆散して、その傍らを後から追いついた味方が突撃していく。双方の砲弾が入り乱れ、敵味方を区別せず、動いているものを取り敢えず吹っ飛ばし続け、地面は背丈の倍程の深さと広さを備えた穴だらけ、皮肉にも墓を掘る手間だけは省いてくれる。戦術らしい戦術も特になく、弾と人の何方が先に枯渇するかを徒に競っている。見ている乗客の中には涙して手を合わせる者が何人もいる。露西亜兵は目を逸らさぬ様に、努めて感情を表に出さぬ様に、立ち尽くしている。  若い将校は戦争の光景に透けて重なる人影を認めて衝動的に席を立ち、向き合った硝子窓を、影を追う様に白手袋の両手で触った。無残な殺し合いを背景に抱えて窓に映るその男は、三八式歩兵銃を此方に向けて構えていた。  宇佐美にも彼の見ているものが見えたので、自分の側の窓を確認すると、もう馬は居なくなっていて、線路脇に赤煉瓦の建物が連なっていた。その二階に等間隔で並ぶ、弓形<アーチ>状の或る窓の小さく仕切られた一枠を破って銃身を下帯<かたい>まで外へ突き出し、此方に狙いを定めている脱走兵。  「あっ。あの人は……」  男について何か言い掛けたのを一発の銃声が遮り、白熊青年は咄嗟に身を屈めながら両手で頭を庇い、固く目を瞑った。将校の後頭部に穴が開いた。壁や窓、椅子、近くに座る人、天井や洋燈の横っ面に血の霧が噴き散って、彼が見詰めていた男を塗り潰した。  「あれっ?僕、銃を持って来てませんでした?」  尋ねながら宇佐美は自分の周囲をきょろきょろと探した。椅子の下も。左腰後ろの剣帯も空っぽだが、ちっとも気づいていない。  「えっ?あっ、ええ」  白熊青年は慌てて顔を上げ答えてから、恐る恐る窓の外を確認した。赤煉瓦の建物は消えていた。列車は晴れた日の海沿いの集落を下に走っていて、大通りから外れるにつれて家屋が疎らになっていく村の全貌が一望出来た。某屋敷の軒先に大鷲の剥製が一羽、彼方を向いて留まっていた。自分の仕事の予期せぬ足跡を見つけた白熊青年は、俯瞰しながら窃<こっそり>と誇らしい気分に浸った。  「じゃあやっぱり、あいつが撃ったのは、僕から盗んだやつ!」  思い当たる節が棘となって癇癪玉を傷つけ、苛々した様に親指の爪を噛み、呟々<ブツブツ>文句を垂れる。  「あの泥棒猫ッ。銃がなきゃ何も出来ないからって……。バレたら怒られるのは僕なんだぞ!腹立つな~」  「あんしと、じょっせねぇっすけ、また巧<うも>う騙<たら>かして、隠してしまんらそうら」  「え?」  声の雑踏を掻き分けて亦<また>お国言葉の内緒話が耳に届いたので顧みると、狗尾草<ねこじゃらし>、蚊帳吊草、茅萱<チガヤ>、雄日芝<オヒシバ>……野に拓かれた広い田舎道を洋燈が夕陽の朱さで染めていた。果てしなく続く風景に目を攫われ、つい蹌踉<ふらふら>と、何時か歩いた道を、隣に知った人を連れて帰途に就く、慣れた感覚に導かれ、夕方の冷たい微風<そよかぜ>が辺りの雑草を擽る中を何も考えず行く。長くて大きい塊が、何かは遠くてよく判らないが、道の真ん中に置いてある。歩一歩と近くなり、どうやら背丈の低い人間がぐったりして横臥っているらしい事が判ってくる。それは柔道着を着た子供で、馬の顔をしている。  宇佐美はその変な生き物を見下ろせる位置にまで辿り着いた。喉が陥没し、額を撃ち抜かれ、円らな瞳が濁ってしまった、鹿毛の顔色をした馬人間。  矢庭に精子を打っ掛けたくなる様な快い攻撃性に背筋を撫でられる。実際に打っ掛けるのも好きだったが、打っ掛けた瞬間を想像する時――後からその瞬間に尾鰭背鰭を付け足して、より一層素敵な感覚に造り替えてから――の方が、昂奮が増す事を彼はよく知っていたので、何もせず長らく見詰めていると、額の央から顳顬<こめかみ>に描かれた血の筋に流れが生じ、穿たれた穴へ溯り始めた。横顔を浸す血溜りが轍を倣<なぞ>って穴に吸い上げられ、少しずつ小さくなっていく。と、断たれた右の小指の先から水鉄砲みたいにピュッ、ピュッと血が飛んだ。真っ赤な精子。あのひとがしてくれたみたいに口を鯉にして小指の先を入れ、ちゅうと吸う。いつまでも初恋の胸の高鳴りを僕に与えてくれるひと。肉の削がれた指の先から止め処なく滴る精子に恍惚<うっとり>した息が纏わり、懐く犬みたいにぺろりと舐めてから、ちょっと高鳴り過ぎて苦しくなった心臓を喘がせて「篤四郎さん……」と呟いたら、夜の帳が頭に肩に圧し掛かって全身が鉛の重さになり、余りの怠さで立って居られなくなって、板張りの長椅子に尻餅を搗く。  軍帽を脱いで背嚢に積み置き、小さく欠伸をする。眠くなってきた。乗客は皆、寝息すら忘れて死体の様に眠り痴<こけ>て居る。白熊青年も好い月に茫乎<ぼーっ>と見蕩れてそのまま寝入ってしまいそうである。偶に擽<クス>と微笑う。  「小樽はまだかなあ……」  二人全く機を同じくして呟いたので、思わず顔を見合わせ莞爾<にこり>とした。宇佐美の小指から滴る血は右手を湿塗<しとど>に濡らし、軍衣の袖口に潜り込んで白い襯衣<シャツ>の手首周りを真っ赤に染めていた。吐いた溜息に退屈を包んで逃がしたつもりになった。前に見ている板張りの壁が、狭く、昏くなってきた。  「あのひとが乗ってきたら、きっとそこが小樽でしょう」  「そうですね」
20201101