人生に主体性があったのは、積怨の迸りに任せて実父を殴り殺した時までだったか。  日清戦争直前から軍籍にあった彼は衛戍監獄に収容され、尊属殺の罪で死刑執行を待つ身であったが、同郷の上官、鶴見篤四郎少尉の尽力で情状酌量を認められ放免となった。以来、兵役を延長し、今では第七師団所属の一軍曹である。  尤も彼が忠誠を捧げる対象は帝国陸軍に非ず、小隊長の鶴見個人にであったが。  鳴き始めた向かい風が顔に粉雪を叩<はた>く。次第に頬や鼻の頭や耳朶を薄紅色に染めるであろう、偏に凍えそうな雪化粧の洗礼に甘んじる。突拍子もなく機嫌を悪くした風が足下の雪を眼前に撒き散らし、吐く息の白粉<おしろい>の色と重なって、数歩先を行く、毛皮襟の外套を羽織った背が霞む。  運命、という言葉の空寒<うそさむ>さが北海道の冬より骨の髄に沁みて、過去の彼是<かれこれ>はこうなる為に必要だったのでは?と思う時がある。  過去の彼是があったからこうなった、と考える方が合っているのだろう。だが物心付いてからこうして彼の背中を眺めて歩く今日までの帰趨が腑に落ち過ぎてしまって、生まれた時から決まっていたとしても不思議ではない気がしてくるのだ。佐渡の僻村、人殺しの父親、駆け落ちを誓った幼馴染の女の子、二つの戦争――此等の要素を巧みに交配させて今の自分を創った男に出逢う前――此等の要素で紡がれた人生が、この人の謀略のお膳立てにしては余りにも出来が良過ぎた。  僅かな真実を隠し味にした嘘は最も事実らしく聞こえるそうだ。なら自分に示された、いご草の様な癖っ毛をした愛しいあの子の行方は何<いず>れかが本当なのだろうか?自殺してしまったらしいという事。金持ちに貰われて両親共々東京へ移住したらしいという事。父親が殺して実家の床下に埋めていたらしいという事。未だにあの子の生死は杳として知れないでいる。  心の底から大切な存在だったなら、鶴見が語った真偽はともかく、自分が去った後の顛末を村人に土下座でもして訊き回るなり、東京を隅から隅まで尋ね歩くなり、たとえ行方知れずの徒労に終わっても、草臥れるまで捜した足跡を残していれば、少しは救われただろうに―――意気地なしめ!  月島は自分に悉皆<すっかり>愛想を尽かしていた。人生に於いて唯一の希望だった彼女の確かな死を、婚約者を颯爽と忘れた彼女の新しい人生を、前科者を見る彼女の目を、どれを目の当たりにしたところで一緒になれる未来には結びつかない。  本当は想像するだに受け入れるのが辛いから、未練を断ち切るという健全な方向に足が動かないのかもしれない。悔いたり悩んだりする事でまだ彼女と繋がっていられるからかもしれない……心がふと靄に舫<もや>われて標と反対の方向に曳かれそうになると、鶴見が悪怯れる事なく白状した、嘘についての釈明が楔となって顳顬<こめかみ>に打ち込まれ――「お前が死刑を受け入れていたからだ」「お前を裁判もなしに監獄から出すための工作だ」――月島を殺すのだった。  抑<そもそも>が拾われた命の分際で、騙されていたと気づいたところで、恨みを抱く資格もない。価値のないものにしてしまった人生でも鶴見中尉殿には必要なら、彼が有意義に使ってくれたら良い。だから自分を求めた男の擅<ほしいまま>に黙々と務めを果たした。  獄中で鶴見に手渡された、輪束にした一摘みの髪は、あの子が生きている証だった。何時如何なる時も懐に忍ばせて、偶に掌に置くと、人生で最も輝いていた時間を眺める事が出来た。従軍中に父親が吹聴した息子の戦死を信じ続けている彼女にとって、自分はもう過去の人になってしまったのだという実感を伴って。  一抹の寂しさを添えた彼女の心遣いに、思い出を後悔に晒さずにはいられない。この形見を持たせてくれたのは「好きと言ってくれた髪だから」……あの子は優しくて美しかった。あの子に相応しい男になりたかった。あの子と一緒に生きたかった。  聞いた話を素直に信じるなら、あの子は生きているはずだ。だが今ではこの髪でさえ大掛かりな偽装工作の一環にも思われて、それに託したあの子への思慕は鶴見への蟠りと切れぬ仲になり、現実を虚しくした。魂の抜け殻にされても、新たな命を吹き込まれ、自分は再び起っている。  己の選択が鶴見を上官以上に負の感情をぶつけてはならぬ人にしていた。月島には鶴見の居ない人生が描けなくなっていた。  生きていかねばならない理由を人に頼るのは昔も同じだ。依存…………大いに結構。故郷を望んで死んでいった戦友の魂と、生き残った戦友の不遇を救う為、あの人の覚悟に随<つ>いて行こうと決めたなら、未練は邪魔になるだけだ。  (あの人を恨みたくないのなら……)  悩んで、悔やんで、傷ついた果てに、倦み疲れた人の漂白された心を以て、躊躇わず棄てたあの子の髪が、冥い小樽の海に沈んでいった。  「寒いな」  鶴見は雪を踏み締める跫に飽きて、体の半分を後ろの月島に向けながら、外套の衣嚢に革手袋の両手を突っ込み、落雪繽紛たる夕闇を仰いでいる。既に辺りは仄暗く、表情は目に定かではないのに、見ている様に月島には判る。侘しさと温かさを綯交ぜにした声でたった一言、心を現実の紐で縛りながらも懐かしみを滲ませた目をして、誰に語り掛けているのだろう?  部下は皆、共に死地を駆け英霊となった数多の戦友に推測を走らせる。鶴見の感慨には常に一緒に浸りたくなる共感性が盈々<なみなみ>と湛えられている。散文的な月島の表現を借りるなら、その抗い難い魅力はまるで好い湯加減の風呂、しかも一番乗りで誰も居ない時の(おわかりいただけるだろうか)。  彼は月島と同じく自他の感情に流されない冷めた視点を重んじながら、月島と違って情緒を逍遥<しょうよう>させるし、その表現にも富んでいる。稟性のものが職務上の鑑識眼を養う過程で更に磨かれたのかもしれない、と思うのは彼が非凡でなければ納得しない追従者達の贔屓目であろうか。  兎角人の心の繊細な事、特に弱さに精通している彼は、人の話によく耳を傾け、人が欲している反応を的確に汲み取り、人に胸襟を開かせる言動を振る舞う。此上無<こよな>く人を愛する心が、彼の為なら死も非道も厭わぬ兵隊蟻を育てる餌として最適だという事を知っている。大勢が救われるという希望の前では善悪の判断や多少の犠牲など霞んでしまう事も。  人心掌握の術を心得ている情報将校の典型に、大衆の指導者に必須の条件である劇場型も演じる人誑しの才に加え、権謀術数に長け、長期的な戦略を練り完遂せんと努力する行動力と忍耐強さ、必要とあらば手段を問わない冷徹さ。歴史上の革命家に好例を挙げられる様な傑物である事は確かだ。月島は鶴見篤四郎という人間を自分なりに咀嚼して、承知した上で驥尾に付したつもりでいる。この人が部下に見せる親しみは、偽物ではないが本物でもない。当の本人には幾ら与えても惜しくない安物であろうとさえ正直思っている。  あらゆる心の赴きが計算尽くでも彼は一向に構わないが、飲めない酒に付き合わざるを得なかった後や、好物の団子に気分を吐き出す時まで勘定しているとは思えない。  「早く帰りましょう。鶴見中尉殿。風邪を引きますよ」  「うーん、それも悪くない。月島は甲斐甲斐しくお世話してくれるからなあ。たまには病人になって、のんびりお嫁さん貰った気分でも味わうか」  「私の仕事を増やさないでください」  揶揄っても面白くない性分だと自分では思っているのに、月島らしい物言いが鶴見には可笑しくて親しげな笑みを分けてくる。  「さっき兵舎にひとっ走りして外泊届出してきたじゃないか」  「そうしろと仰いましたので」  「うん」  「お加減がよろしくないので?」  「いや。月島をどう口説けばいいものか考えていた」  月島は辻の脇に佇む古い石塊の道標みたいに閴<ひっそり>とした無関心を表情に宿らせた。夜道を歩いていて人にぶつかったので慌てて謝ったら電信柱だった、という時の気分に近い……だろうか。  「あ、その顔。冗談だと思っとるな」  「はい。鶴見中尉殿が私の扱いに頭を悩ませるとは思えませんので」  鶴見は顎を一撫でして謎解きに興じる様にちょっと思案顔をしてみせた。なんとなくではあるが珍しく迷っている様に月島には見えた。しかし徐に此方に足を踏み出した時には既に月島の観察眼が捉えられる表象は取り上げられている。顎を指で掬われ、あっ、と思った。何をされるか察した。  「傷つけたかな?……」   優しげな目には抗いを挫く包容力があって、以前にも見た覚えがある月島の記憶を呼んだ。後にも先にもあの時ほど傷つけられた事はない。こんな些細な悪戯を労わられても今更だ。大切な人を利用されて騙された以上に心を虐げられる事があるとでも?  などと恨めしがってみても実際に気分が付いて来るわけではない。鶴見が相手だと打ち拉がれた敗者の心理が邪魔をして、悪感情が仕事をしたがらないのである。  (俺が大切なものに寄せる気持ちより、この人が俺に注ぐ執着が勝ったのだ)  鶴見が月島を手に入れようと注ぎ込んだ労力を月島は持ち得なかった、否、赫<かっ>となって父親を殴殺するぐらい行動力はあってもそれを正しく活かせなかった(別に間違えたとも思っていないが)。大切な人を失ってから結局やった事といえば世の中に犯罪者を一人増やしただけだ。自身を客観した時、彼の精神は去勢されてしまう。“自分の人生に憤る価値などない”。矛を向けようが折れてしまう道理である。  「いいえ。少し、驚きはしましたが……」  突拍子もない行為に対しては勿論だが、上官と部下の関係に罅を入れる様な真似をした鶴見に失望していない自分にもだ。月島は麻痺とも疑える平常心に却って戸惑い、軍帽の庇を少し下げて伏し目がちに視線を外した。  「嫌か?」  慈しむ声に彩られてはいても、抱懐を一蹴する、素っ気無い問いである。月島に許された意思表示は応か否しかない。鶴見の意図を知りたくて視線を戻したが、見せないのか、見えていないだけなのか。こんな恣意的な遣り口で忠誠心を試すもないだろう、という共通の認識は根底に流れていて、互いに相手の目から汲み取れる。  他にもある。掲げた旗の下でなら、人生が一変してしまう様なもっと残酷な踏み絵を用意する恐ろしい人だが、徒に部下を幻滅させる人ではない。立場以外の扱いを望んでいない月島は、その視点からしか物を言いたくない……。  「これも駒を繋いでおく為の措置なら、自分には必要ありません」  「逃げないのは知ってるさ」  では何故かと訊かぬ方が賢明だと過去の経験から学んでいる。嘘と真実を巧みに織り成した綾に判断を眩暈<くら>まされるだけだ。  「失礼しました。自分の浅慮でありました」  一線を越えようと嗾ける上官への牽制のつもりで、頭の先から足の先まで正しい姿勢を殊更意識して部下らしく詫びる、その態度が鶴見には可憐<いじ>らしくもあり、頼もしくもあり、些か憎くもある。  「月島にはちょっとでいいから自分を特別だと思っていて欲しいんだがな……しかし自惚れられんのが月島のいいところだから困ったものだ」  褒めながら声や表情に微々たる翳を作った落胆を、月島はどう解釈していいのか判らない。鶴見は稍<やや>冷笑気味の憫笑を見せて、右の人差し指で額を差した。  「俺は此処を見る度に、嫌でもお前が頭を過<よぎ>るっていうのに」  彼の憂鬱そうな雰囲気が只の軽口を告白と呼べる重さにして、知ってしまった月島に冥い小樽の海に沈んでいく髪を自分に換えて思い起こさせた。普段は掬い上げる事のない、絶えず心の深淵を流離<さすら>っている遣る瀬無さに遭遇してしまい、肺腑に鉛を詰められた様に苦しい。後頭部に革帯を通して額に固定してある琺瑯<ホーロー>製の鉢金の下は、帝国軍人の名誉の負傷、部下には瀕死の体験を強いられながらも報われぬ自分達の象徴でもあり、結束を高める為にその感慨を利用している節さえある鶴見がそんな甘い感傷を抱いているとは到底信じ難いのに、恰<あたか>も自分が鶴見の口を借りて吐露したものの様に思われた月島には、偽りに聞こえない。  「自分がたまたま近くにいたからです。他の仲間も同じ事をしたはずです」  努めて平静を装って宥めている相手は、実は自分自身ではないのか。当たり前の事をしただけだ、と畳み掛けながら、言い訳をしているみたいで虚しい。  「そうだろうな。だが実際に身を挺して俺を砲撃から庇ったのは他の誰でもない」  陣地に着弾する直前まで鶴見の嘘を面詰し、憤りの余り殴りさえしたにも拘<かかわ>らず、だ。咄嗟に動いた我が身には、重傷を負い担架で運ばれながら、正直呆れ返っていた。あの子の癖っ毛をいご草と冷やかす苛めっ子連中から彼女を守ろうと体を張った悪童の頃を顧みると、兵隊になってからもしている事は大して変わらない様だ……だがあの時分には意志があった。あの子を守りたかったからそうした。この人は守らなければならないからそうした。長い軍隊生活で強制的に書き換えられた意思、自分より上官の命を優先する判断はもう癖の様になっていて、自身の尊厳を冒した相手であってもそれは変えられない。きっとこの先何度でも命を懸けて鶴見を助けてしまうに違いない。神経の末端まで兵隊根性の染み付いた自分にはもう此処より他に居場所がない。  「鶴見中尉殿、私は、」  損なった額に嫌でも貴方と離れられない自分の性を思い知るのです、身の内ではそう吹雪いているのに、抱擁に窶して胸底を蹂躙する共感の腕に喉を破られて言葉の痞<つか>えを曝された喪失感から黙<もだ>され、真っ白な息となって粉雪の中に跡を晦ます。  「うんざりするだろう?」  投げられた同情に含まれた酸が境界線を腐食して、額の様に自我が爛れていく。彼の提示する地獄とやらを受け容れられる様に、今の自分に繋がる道へと追い込んだ彼こそがたった一人、真の理解者ではなかったか?……未練が蒸発していくあの感覚が、奉天で彼が見せた絡繰り糸を自ら首に搦めたあの時が黄泉返ってくる。身の毛も弥立つ汚れ仕事を遣り遂げる覚悟とは、報われぬ仲間の為にという大義に捧げた誓いであって、鶴見の随意に費やして然る可<べ>くもない。その気高い使命感無くして堕ちる地獄の悍<おぞ>ましさは、鶴見によって植えつけられた不感症だけが朧にするのではなかった。二人して同じものが見えているなら、何の慰めにもならない悟りとの添い寝も絆にしてしまう愚かさの正体―――誰かに必要とされたくて已まない渇望!  (ああ、そうか……この人は知っていて……)  求めてくれる人に全てを捧げる生き方を準<なぞら>えてしか歩けない者に、鶴見が踏ませる轍<わだち>のなんとお誂え向きな事だろう。この人が呉れるものは、あの子から与えられた生き甲斐の歪な剥製なのだ。それは時間の流れに洗われて、色褪せていく過去の本物とは逆に、より本物らしく精練されていく。  似て非なるものと分かっていながら、離れ難いという印象だけは同じ様に燻<くゆ>るから、攫われた振りをして、捧げる。  鶴見は目を騒がせる何をも然<さ>も居なかったかの様に背を向け、再び歩き出した。  表情<かお>で物を喋る月島を見るのは珍しい事だった。額が薄ら熟熟<じくじく>するのを感じた。両者の間には以前にはなかった理解が横臥<よこたわ>っていた。  厳寒の針が指先を刺して両足をこの場に縫い留めようとする様だ。らしくなくそう思わせる理性も、諦観の人となった月島の行く先を変える影響力を持たない。  (本物ではないが……偽物でもない)  随伴ずる影の道理を自らに写して、見慣れた後ろ姿が作る足跡を標に、常と変わらず月島は只<ただ>歩いた。
20210318