二階堂浩平の右膝から下はない。頗<すこぶ>る腕利きの老剣客に、切れ味抜群の日本刀で、脛の上部を大根みたいにバッサリ斬られたのである。  その前はヒグマに頭をどつかれて後ろ半分の皮と左耳が剥がれ、おまけに脱走を企てた制裁として上官に剃刀で右耳を削がれ、既に首から上は踏んだり蹴ったりの目に遭っていたのだが。  夕張で会った才能溢れる剥製職人から贈られた、特製の革製防護帽<ヘッドギア>を装着している姿は仲間内でお馴染みとなり、すっかり彼の特徴となっていた。衝撃を受けたら崩れるかもしれん後頭部を抱える彼にとって、就寝中も外せない貴重な生活必需品である。頭頂部に乳首が並んで乗っているのは製作者の趣味。所有者のお気に入りは、顎の部分に人間の右耳の剥製がしっかりと固定されているところだ。彼は屈めた掌で声の出処を隠す、まるで子供の仕草で、物言わぬ耳を相手によく内緒話をしていた。  二階堂には曾<かつ>て洋平という名の双子の兄弟がいた。周りの誰も見分けがつかない瓜二つの分身である。当然耳の形も酷似している。実は洋平の形見ではなく自分が失った体の一部と話しているのだが、仲間が指摘して物笑いの種にするには浩平の精神状態はあまりにも哀れであった。  洋平の無念を想うばかりに己が抱える復讐心との境界線がなくなり、自分の体を魂の片割れと共有している感覚を得ていった。それに伴い元々痩け気味だった頬の陰が深くなり、目の下の隈が濃くなり、瞳孔が開きっ放しになって、明らかに心を病んでいるという印象を与える顔つきになっていった。包帯をぐるぐる巻きにした右脚の断端が漸<ようや>く慢性的な疼痛で苦しめる拷問に飽き始めた頃には、鎮痛剤として投与される塩莫<モルヒネ>は規定の量で満足出来なくなっていた。  宛行<あてが>われた病床の脇には注射器と小瓶が転がっている事が往々にしてあった。そんな時、二階堂は虚ろな目を空に彷徨<さまよ>わせて、筋肉の弛緩した顔で呂律の回らない何言かを垂れ流している。  「……ハ腸<はらわた>ぁいっぱい出てるゥ〜アハはハハ見て見てぇィヒッ洋平うーんもつ鍋〜美味しァハハッ、アハッ。……ぅう〜……うーん?」  徘徊中の蜚蠊<ゴキブリ>が異質な気配を察知して足を止め、触覚を蠢かせている時の様な緊張感が、僅かながら二階堂の脳を擽った。  「あれぇ?」  彼はその靄<モヤッ>とした嫌な方向への意識の移行に何となく覚えはあったが、原因を掴める程の判断力に欠けている状態だったので、仰臥したまま特に何するでもなく頭も体も放ったらかしていた。  真夜中の病院の安らぎは寂しい。六台の病床を二手に分けて設置した相部屋に、患者は癈人半ばの一人だけ。かといって扉の向こう側で板張りの廊下が微かに泣いても不審感しか湧かない。いずれにせよ今の二階堂には問題ではないだろう。  微睡<まどろ>むお人形さんの両脇で、窓から差す月明かりが洋床<ベッド>と洋床の間を清<さや>けく刷いて、辺りの静けさに侵すべからずの趣<おもむき>を与えていた。それは正気を失った人間を生贄に、碌でもない何かを召喚する様な、儀式めいた不気味さを寝台の上に引き立てていた。  とてつもなく大きな灰色の蜘蛛が体に跨っている。顔の部品がてんでバラバラな福笑いのお面を被っている。え?なんか喋った?両の耳殻を取っ払われ、穴だけになった聴覚器官の底から湧き出てきた五つの発音が洋平の耳に吸い込まれ、翻訳されて意味になる。  こ、ん、ば、ん、は、と言っている。  「洋平っ……。洋平起きてっ……」  右脚を上に、横になった姿勢で密々<ヒソヒソ>と顎の耳に耳打ちする。何だよ浩平?なんかいる……。どれぐらいの時間が経ったのか、お薬の力でフワフワとお空を飛んでいる関心は、やっとこさ現実に紐付けられつつあった。  寝間着の裾を割られ、右股の裏側を包帯の上から撫で撫でされている。  そーっと視線を体の上の空間に向けてみる。  黒くて艶のある飴玉みたいな物が二つ、三寸ぐらい隔てて並んで浮いていた。昨日も一昨日も一昨昨日<さきおととい>も、真夜中の同じ時間に同じ物を見たのに、全く覚えていない浩平であった。  じーっと見ているうちに、じーっと見られているのに気がついた。  おばけ?  「ねえ…。誰なの?鶴見中尉殿?」  身を隠した壁の端から瞥<ちら>と覗く様な興味を持って話し掛けると、黒い飴玉が瞬<しばた>いた。それは上下に睫毛の叢<くさむら>の生い茂る、とても美しい瞳なのだった。右目の下の婀娜<あだ>っぽい泣き黒子と、蛾眉<がび>の屋根。唇の沓石<くついし>には熟れた柘榴<ザクロ>の実。斑緑青中紅一点。  うーん、なんか違う?  …………………………。  あっ!と叫んでしまう程の強い違和感が、数多ある記憶の抽斗<ひきだし>から正解を選んで抉じ開けた。  緑青の斑は髭を剃った跡だった。紅を塗ったくった様な唇と不釣り合いで、認知が騒<ざわ>めき、なんとなく怖いという感覚を起こした。中年なのか脂肪が削げ法令線が目立つデカい顔に、黒子の小石を三つ頬肉に散りばめ、真ん中には低くて末広がりの鼻。三本線が走る額は前から見上げると果てがない。少ない毛髪は畝<うね>って襟足まで伸び、軍人ではないのは判るが、化粧の濃い男性なのか、髭の濃い女性なのか、暗がりの見た目ではちょっとわからない。  が、二階堂は知っていた。  おじさんだ。注射のおじさん!  「ヤダーッ!ヤダヤダヤダ!!痛いのヤダ!お尻の注射キライ!」  彼は壊れた拡声器になって恐怖を撒き散らし、その対象を拒絶しようと、肘をついて上半身を支え、左脚で、えい!と蹴っ飛ばした。  ミス!にかいどうはダメージをあたえられない!  「ぇえええ〜?なんでなんでなんでぇ?どういうことなのこれっ」  にかいどうはこんらんしている!  確かに足はおじさんの胸に当たったはずなのに、どういうわけか肉体を突き抜けて、徒<いたずら>に空を突いているではないか!  おじさんは両脚の膝裏を掴んで前に倒し、二階堂の臀部を寝台から浮かせてから、外側にぐいと押した。右脚だけが文字通り足掻いた。褌が盗られていた事にも気づかなかった。  洋平の耳が浩平の脳から漏れた拾五の音を拾って、翻訳して返す。  こ、ん、ど、は、お、じ、さ、ん、が、つ、く、ば、ん、だ、よ。  「やめてっ!あ!あああああ」  ズブ!!熱い肉の棒が肛門に刺さった。  ひっ、と喉が引き攣り、頭がぐらぐらした。  前にも、こんな、ことが……。  途端に全身がぐったりして気が遠退く。体の中で股下から頭上へ何度も駆ける、内臓だと感じていた物が、実態のない別の何かに摩り替わっていく。視界が一箇所に落ち着かず、揺さ振られているのが自分か、寝台か、病室か判らなくなってくる。二階堂の目は眠気とは違う感覚で酷く虚ろになり、自ずから股関節をだらしなく開き、おじさんに首から上をヨシヨシペロペロされて恍惚<うっとり>していた。  「ぅうん……」  くぐもった喘ぎ声ごと舐められ、乾いた唇はベトベトになった。口の中、蜜柑の味がする!二階堂はますます好い気分になった。おじさんの形に馴染んでいる穴は摩擦の虜になって、快<よ>がらせる事しか知らない。  「はぁぁ……。きもちいぃいいぃああああぁきもちいぃいいい〜」  おじさんは木魚みたいに規則正しく尻の肉をポクポクと叩き続ける。二階堂の口からは喘ぎ声が涎と一緒にテンションの高いお経となって流れ出て、病室一杯に渦を巻いて、顎の耳に吸い込まれ、思い出の祭壇に飾る洋平の遺影を呑み込む。いいぞ、もっとやれ、やっちまえ浩平、ハハハハハ……。  「はぁはぁおじさんっ洋平の体にもっといっぱい注射してあげて」  底抜けに明るい期待と滲む涙で目を輝かせて、両腕を伸ばして首の後ろを抱き寄せ、逃すまいと左脚一本で腰に絡み、全身でおじさんに獅噛みつく。おじさんは右脚の膝と断端の間を優しく撫で撫でしながら、ストライクゾーンに直球をズドン、時にはここしかない!という制球…いや制棒力<コントロール>抜群の変化球を織り交ぜて緩急をつけ、打たれる者を翻弄する。股座<またぐら>からは拍手が絶え間なく起こり、呪詛の様な歓声が室内に満ちる。  「あ〜あっあっあっああ〜あ〜ぁあんいくぅぅぁんぁんぃくうぁんあんあぁいくぅ〜いくぅ〜あいいああぃいああいゥううぅぅぅ」  絶頂の一歩手前を自分の声の波に乗りながら延々と流されているうちに脳が痺れてきた。二階堂の体の心象は、いっぱい綿の入った贅沢な布団を何枚も重ねた中に挟まれ、窮屈で柔らかい圧に包まれた銅鑼焼<どらやき>の餡になっていた。  「わあっ、ぁあぅっお、おじさんそこダメっ……いいっあぁ~ひいっあっあっあぁぁん!!」  餡!!!突きまくるおじさんの悪戯で穴だらけにされた上に白い粘りをぶっかけてしまい、二階堂の体は遂に原型を失くしてしまった。彼は半ば白目を剥いて開きっ放しの口の端から泡立った唾液を垂らしながら痙攣していた。洋平、気持ち良かったね、ありがとう知らないおじさん!  「ぁハァァ〜……ゥフッ、ょ洋平……」  しーん。返事がない。洋平が何処にもいない。なんで?さっき溶けてしまったからだ。そんな馬鹿な!二階堂の白目が半回転して黒目を顕した。あ、そうだ。餡になったから?炎天下の野外訓練で只管<ひたすら>に塹壕を掘らされた折、地元の人が兵隊さんの為にと毎度拵えてくれた月寒あんぱんをその時は美味しく頂いた兄弟だったが、後には見るのも嫌になってしまった。熱中症の死人が出る程の辛さは元通りに埋め直すまで続いた。その最も嫌いな訓練と結びついてどうにも胸糞悪くなるからである。彼の享受した快楽が故郷の蜜柑に結びつかなかったのは何故であろう?無論浩平にそんな疑問が湧いてくるはずもなく、ただ片割れを感じられなくなった不安から動けないでいた。  「んっ……」  肛門の栓が抜けた開放感から身震いして、天井とお見合いしている団栗眼をきゅっと引き締める。穴がある。尻だけじゃない。何処も彼処も……中身がどんどん外に流れていきやがる。畜生。俺の体を掘った奴は誰だ。何をしたら埋まるんだ……どうせもう埋められやしないのはわかってるんだ……独りじゃ無理なんだ、独りじゃ……洋平……洋平に会いたいよう……。  二階堂は涙目になってぐすんと鼻を啜った。それから体の左側を下にして丸くなった。そのまま寝入るかと思いきや、左の肘と右の掌で上半身を支え起こした。  目に飛び込んできたものは派手な切り傷だった。左右の頬に縦の線、其等<それら>の頭を横切る一文字、まるで顔面が簡易地図みたいになっている男、癈人となりつつある二階堂が生に縋りつく縁<よすが>が此方を俯瞰<ふかん>していた。  「ずぎも゛どォォおおォォ!!!」  お前のせいで洋平はいなくなった!こいつが洋平を殺した!こいつが!  洋平の最期を巡らせるまでもなく憎悪が噴出し、咄嗟に自分が何をすべきかを判断した彼は、残った左脚にありったけの憤怒を込めて、躊躇なく右腕の関節の少し上辺りに踵を叩きつけた。  かいしんのいちげき!  今度こそ確かに手(足)応えがあった。杉元は苦痛で歪んだ表情(多分)を晒す前に寝台から落ちた。そして慌てて立ち上がり、打撃を喰らった箇所を庇いながら蹣跚<よろ>めく足取りで病室の出入り口を目指した。  黙って見逃すわけがない。殺してやる!洋平と同じ目に遭わせてやる!お前の腸を引き摺り出して鍋にぶち込んで食ってやる!右脚がないのを完全に忘れて、彼は杉元を追おうと左脚を下ろした。  ところが片脚で立ったと同時に平衡感覚が乱れた。何か踏んだと気づいたが既に遅く、えらい勢いで前に滑って全身が反り返った状態で宙を舞った。  あれぇ?と思うや否や、寝台の縁に後頭部をゴン!!!  「ぅーん……」  それっきり全く動かなくなった。  自身が適当に投げ捨てた塩莫の空瓶が、虚しい音を立てながら床を転がっていった……。  数日後、月島軍曹が二度目の見舞いに訪れた時、二階堂は先日と同じ様に塩莫の瓶を隠し持っている事を咎められ、それを奪おうとする軍曹と死守する二階堂の激しい攻防戦が病床を舞台に繰り広げられていた。  「鶴見中尉に言いつけるぞッ」  寄越せ、寄越せと怒鳴りながら伸ばしてくる軍曹の手を、瓶を右に左にと持ち替えて躱<かわ>し続けていると、突然大きな声で名を呼ばれ、二階堂のみならず軍曹も喫驚<びっくり>して戦いを止め、声のした方を振り返った。何時の間にか中尉が病室に入って来ていた。  「貴様に素敵なお客さまがお見えだッ」  「え?お客さん?誰なの?」  全く見当がつかないので不思議そうな表情をしているが、訊き返す声が期待で少し弾んでいる。鶴見中尉殿が言うんだからきっと素敵な人に違いないと思う。さっきまで怒っていた軍曹も晴れの機嫌を表<あらわ>して二階堂の予想を肯定している。  「どうぞお入りください」  中尉が誇らしげに右腕を出入り口に差し出し、今から貴人が入室する旨を示してみせたので、二階堂の視線は自然とそっちに流れた。扉枠の向こうに人影が見え、今か今かと待ち構える二階堂の前にその姿を現した。  「………。誰?このひと」  と尋ねる二階堂と同じくらい軍曹も怪訝かつ意表を突かれた顔をして、二人はお客さまとやらを眺めた。どういう手違いか、どうも予定の人と違うらしいが、二階堂はそんな事ちっとも知らないし、お客さまと並んで立っている中尉はまだ気がついていないのか、上機嫌でサプライズ成功を喜んでいる。  その人物は睫毛と髭の跡と唇の紅味が濃い中年のおじさんで、入院患者らしかった。というのも首を石膏で固定して右腕を吊っている怪我人だったからだ。腕が折れて、首の筋も違えたのであろう。  「誰?」  おじさんは黒い飴玉の様な瞳を此方に向け、黙って突っ立っている。あれ?どっかで見た?  だんだん不安になってきた……。  「ねえ…!!」  お尻で後退<あとずさ>りしながらも返事を促してみたが、もしかしたら聞こえていないのかもしれない。ただ二階堂にはおじさんが何か言いたそうに見えた。  「誰なの?怖いよおッ!!」  叫んだ傍<かたわ>ら四つの音が幽<かす>かに鼓膜を叩いて穴の内で膨らんだが、その意味するところが解らない二階堂は怯えて青褪<あおざ>めるだけであった。  よ、かっ、た、よ。
20211229